【バーンスタインのマーラー第九①】ベルリンフィルのトロンボーンはなぜ落ちた。

ここ1年くらいの間に、バーンスタンのマーラー第九についていろいろと書くことがあったので、順番に投稿したい。

仕事でもオーラルヒストリーの重要性を感じることが多いが、バーンスタインが生涯に一度だけベルリンフィルの指揮台に立った「伝説の公演」をめぐって興味深い証言があった。

昔からカラヤンとの確執の噂をはじめ、エピソードには事欠かない録音だが、音楽面での最大の謎は、長い長い第四楽章のアダージョの大詰め(118小節)で、「最後の審判」のような宿命的なファンファーレを鳴らすはずのトロンボーン・セクションが全員落ちていること。「天下のベルリンフィルが何故?」というのは、この録音の謎の一つだった。

世の中には物好きな人がいるもので、指揮者の徳岡直樹氏がこの日の演奏会についての情報を集め、彼のサイトで発信している。それによれば、当時の演奏会を聴いた人の証言で、音楽がこの部分に差し掛かる前に、舞台のオーケストラの後ろの方に座っていた聴衆が心臓発作を起こし、救急隊員がトロンボーン・セクションの間をかいくぐって救命に行き、そうした混乱のために、この重要なフレーズに入り損ねたのだという。ご存じのとおり、ベルリンのフィルハーモニーは舞台の演奏者の後ろにも聴衆の席がある。

かれこれ40年以上前の演奏会での出来事でもあり真偽は不明だが、純粋に興味深い話。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm37377337?ref=series&playlist=eyJ0eXBlIjoic2VyaWVzIiwiY29udGV4dCI6eyJzZXJpZXNJZCI6MTcyMDk2fX0

 

 

トルストイ「復活」読了

トルストイの「復活」を読了。幾つかの本と併読とはいえ数か月を要す。

そう簡単な感想を受け付ける作品ではないが、現在、我が国でも徐々に広がりつつある貧富の差、階級社会の広がりの中で、どう生きるかということについて考えさせられる。

小説として一応の決着を付けるため、主人公としての解らしきものは述べられるが、それが万人向けの解というわけではないし、作者自身心底納得できていたかも分からない。その後、トルストイ自身、おそらくはその解を探しに、80歳を過ぎた老体で「家出」をし、客死したわけだから。

解よりも問いかけに意味があるのだと思う。

 

ベートーヴェン 弦楽四重奏第14番(弦楽合奏版) バーンスタイン・ウィーンフィル

 

バッハから本当の現代曲まで何でも聴くが、一番愛着を感じるのがブラームスブルックナーワーグナーあたりからマーラー、R.シュトラウスを経て、シェーンベルクの初期(浄夜弦楽四重奏第二番)あたりまでの音楽。

 

管や打楽器の刺激的な響き抜きの弦楽合奏で、「浄夜」と同程度の調性感で神経を休めさせてくれるものがないか、youtubeSpotifyで、シュレーカー、フランツシュミット、ツェムリンスキー、コーンゴルトの室内楽を漁るが、あまり気分にヒットするものは見つからない。

 

むしろ、その過程で、偶然、バーンスタインがやっているベートーヴェンの作品131の弦楽四重奏弦楽合奏版に行きあたったが、むしろ、これが実に素晴らしかった。

ベートーヴェンは手紙等を読んでいるとカネにもうるさいし、あの有名な「永遠の恋人」の手紙も今風に言えばストーカーの匂いも感じる。とにかく、始終まわりの人達とトラブルを起こしていて、「楽聖」といって単純に崇拝できるような人物とも思えないが、作品を聴く限り、崇高な精神しか感じさせない。

終楽章は、晩年に至るも続く、運命との闘い。天使最後の長調の和音は、「下がれ、悪魔よ。神は我にあり」と宣言しているように聴こえる。

 

https://www.youtube.com/watch?v=wYGTurA-5bA

佐渡裕・トーンキュンストラー管弦楽団 ブルックナー交響曲第八番

日本指揮界の期待の星、佐渡裕とトーンキュンストラー管弦楽団ブルックナー第八のCDが発売されるらしい。
Spotifyで既に聴けるので聴いてみた。全体に高水準の演奏と思った。先般書いたジュリーニウィーンフィルのライブのような異常な高みには及ばないが、それは仕方がないだろう。
意外にも、本場の評価(ウィーン新聞。2019年の演奏会への批評)は更に高い。トーンキュンストラーというのはウィーンでも愛されている楽団で、そこのChefを任されている以上、一定の評価があるのは当然とは思うが、今回の記事はタイトルからして「救い主の苦難の道。率直で、力づくで、生々しく」、このカトリックの都の誇るカトリックの作曲家の畢生の大作のパフォーマンスへの評価としては、ほとんど絶賛といってよいのではないか。
同じ時期にライブ録音を進めていた(一般的評価では格上であろう)ティーレマンウィーンフィルをわざわざ引き合いにだし、「佐渡は弦楽器により暗く、時に血のように赤い涙を流させただけでなく、フォルティッシッシモは極限まで鳴らした。これで幾つかの声部は闇に消えたが、この『交響楽の王冠』が傷つけられることはなかった」とかなり興奮気味に伝えている。
ウィーンでは長く愛されていたバーンスタインの愛弟子だったことも言及し、この見栄えも良い東洋人指揮者を盛り立てようというマーケティング的なセンスがないとは思わないが、日本の経済力が他を圧倒していた時代とは違うので、彼が日本人のマネーを引っ張ってくるということへの期待だけではないだろう。
ウィーンというのは固陋で排他的な都であるという逸話には事欠かない。自分自身、旅行の際にエレベーターで一緒になった老婆の「この糞ったれ日本人どもが」という独り言を聞いたこともある。他方で、この旧ハプスブルクの都は、外から新しい血、新しい才能を、回春薬のように受け入れて、活力を維持してきた伝統もあるように思う。音楽界でも、しばらく前の小澤征爾、その前のバーンスタイン然り。ボヘミアの辺境から現れた、あのグスタフ・マーラーでさえ、その一人と言えなくもない。
佐渡に対する期待も、日本マネーというよりは、彼の中に、外から新しいものをもたらす活力と才気を見ているのではないか。
 

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藤田真央・N響 シューマンピアノ協奏曲

しばらく前にラジオで聴いたピアニスト・藤田真央とN響と共演したシューマンの協奏曲の録画を観た。
藤田真央を映像で観るのは初めて。若いとは知っていたが、ルックスは本当に少年みたい。丸顔なところはスヌーピーに出てくるシュローダーみたいだが、もっとずっと幸せそうにピアノを弾く。
でも演奏は言うまでもないが凄い。大変な美音と、隅々まで感じる意思。
既に世界中で引っ張りだこ。もっとも、公式ページにある、3/9にアムステルダムのコンセルトへボウ、3/13にミューザ川崎というスケジュールが、コロナを別にしても可能なのかという気がするが。
いずれにせよ、この先、長い道のりで、いろいろなことがあるだろうが、ずっと幸せそうにピアノを弾き続けてほしいと思う。

 

 

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鈴木雅明・東京交響楽団 シューベルト・交響曲第八番「グレート」

いつも書いているように、自分自身は音楽の演奏様式についてはウルトラ保守で、バロックもイムジチやミュンヒンガーのようにチェンバロ以外はモダン楽器でやってほしい派。
その意味で、オリジナル楽器でのバッハ演奏の大家、鈴木雅明氏というのはその名声は知りつつも、一貫してスルーし続けてきた。
ところが、先日FM放送された東京交響楽団シューベルトの第八交響曲(いわゆる「グレート」)を聴いて唸った。
冒頭のホルン、そしてオーボエが主題を吹いた後の弦楽器のアンサンブルが、人数が少なくてピッチがきちんと合った奏者で演奏されると何とも美しい!
そういえば、去年の夏に新日フィルを新進気鋭の若手指揮者・太田玄氏が振った同曲も、同様に少人数の古楽演奏にインスパイアされた演奏だったが、特に第二楽章の弦楽アンサンブルの部分が美しかった(この演奏は最近CD化されている)。
もちろん、フルトヴェングラーベームの分厚い響きのロマンあふれる演奏への愛着は変わらないが、オルタナティブとして、鈴木氏や太田氏のような演奏もいいなと思った次第。
他方で、モーツァルトベートーヴェンでは、まだ、こういうHIP(Historically informed perfomance)で良いと思うものにあったことはない。

スヴェトラーノフ・N響 マーラー交響曲第六番

今日のFM放送、N響レジェンドは、スヴェトラーノフマーラー6番。
この曲は、かつては、作曲家個人の悲劇と結びついた、禍々しい、聴く側にもとても覚悟を要求する曲だったし、演奏もショルティはじめそうした期待を裏切らないものばかりだったが、最近はすっかりtameされてしまって「普通のクラシック音楽」として消費されるだけのものになってしまった。
仕事もそうだが、繰り返して慣れてくると、どうしても最初の心意気が失われていく傾向があって、時々、無茶苦茶な人が現れてdisruptしないと、どんどん角が取れてつまらないものになっていくように思う。
スヴェトラーノフは、ある意味、そういう無茶苦茶な人だと思うので、このマーラーで何をやっているか楽しみ。といっても、これも、かれこれ四半世紀以上前の記録ではあるが。