バーンスタイン・インタビュー

1990年頃は月間ASAHIという雑誌があった。自分はこの雑誌の読者ではなかったが、この年の夏に来日するバーンスタインとのインタビューが掲載されたので買ったのだろう。日に焼けた切り抜きが手元に残っていた(インタビュアーはCottという米国の音楽評論家)。

孤児の子供たちを励まし、民主化されたプラハベートーヴェンの第九を振り、ウィーンで弟子の佐渡裕を指導し、札幌のPMFを立ち上げる等、末期の肺癌を患っていたとは到底思えない活躍ぶり。写真にはないが、89年のクリスマスには壁崩壊直後のベルリンで東西混成のオケで第九を振り、90年2月にはブルックナ―の第九のCD・映像を作成したりもしている。

インタビュー記事もサービス精神旺盛で茶目っ気たっぷりのエピソード満載だが、音楽ファンとして気になるのは、マーラーの夫人アルマの愛人として、グロピウス、ココシュカ、ヴェルフェルに加え、さりげなくブルーノ・ワルターの名を挙げているところ。

自分の短い米国経験でも、ニューヨーク在住のユダヤ人社会のネットワークは密な様子がよく分かる。その住民であるバーンスタインが、かつてコミュニティの重要人物であったアルマ・マーラーやブルーノ・ワルターについて、それほど無責任なことをいうとも思えないので、そういうことはあったのだろう。

アルマが、人格者として知られ、マーラーの最も忠実な使徒であったワルターのことを「汚いブタ」と罵っていることを不自然に思っていたが、久しぶりのこの記事を読んで、そういう過去もあったのかもしれないと思った。

 

 

【バーンスタインのマーラー第九⑦】東大オケのマーラー第九(2)

東大オケマーラー第九の話はまだ終わらない。その後、約10年後、ミュンヘンに滞在していたときに、演奏会場でしばしば会う日本人のSさんという知り合いがいた。私より少し年上だったが、私と同様、絵に描いたようなクラオタお兄さん。西洋史の専攻で、ミュンヘン大学で歴史の博士号取得を目指していた。西洋の音楽、文化、社会あらゆるものについて深い造詣があり、演奏会後に、市庁舎前のDonis`lという行きつけのドイツ料理屋でRadler(ビールとサイダーを混ぜた飲み物)を飲みながら、演奏会の感想戦と同時に、日独の経済・社会・文化の違いについて話をするのは、至福の時間であると同時に、自分にとっては非常に貴重な学びの機会だった。

このS氏とは、当然、このマーラーの第九についても話題になった。自分で初めて生で聴いたのは東大オケの演奏会だったという話をしたところ、この年上の友人が何か急に動揺し始めた。何かと思って話を聞くと、このマーラー第九の演奏会にトランペット奏者として参加していたが、S氏はあがり症で、大変重要な部分のソロが怖くて仕方がなかったとかいう話だったと思う。

そう言われるとすぐに思い当たるが、第三楽章、あのダンテの煉獄を彷徨うような荒涼とした音楽が長々と続いた後、突然、天国のような光景に変わる部分。そこの最初の8小節くらいがトランペットのソロで、第四楽章の聖なる雰囲気を予告するメロディーを高らかに吹く。全曲の中でも、バーンスタインベルリンフィルが落っこちた第四楽章のトロンボーンのパートと匹敵する名場面。西洋の宗教画でよくある、天空を舞う大天使が吹くラッパを思わせるシーンで、ラッパ吹きなら死ぬまでに一度は吹きたいパートだろうと思う。

この時のS氏の話はいつになく歯切れが悪く、本番で失敗したのか、あるいは、練習で失敗したので本番は別の人に取って替わられたのかよく分からなかったが、「自分は肝心なときにプレッシャーに負ける駄目な人間だ」「トランペットを吹くのはやめた」「人間、勝負の瞬間というものはある。あなたはどうか負けないでほしい」等々、いつになく深刻な話となってしまい、Radlerも苦くなって、その日はお開きになったと思う。

東大オケの演奏会自体は、早川氏のパンフレットが印象的で、残念ながら演奏自体の印象はあまり覚えていない。第三楽章のあのトランペットソロが間違えたら印象に残りそうなものだが、そういう記憶もないので、S氏の話は本番の話ではないのか、あるいは演奏会が複数回あって別の会場でのことだったのかと思う。

S氏とは当方の帰国後、忙しくしているなかで連絡が途絶えてしまった。本業の西洋史の研究でも、ラテン語ギリシア語、古ドイツ語を駆使して史料を読まなければならないということで、何か壁にぶつかって苦労されていた印象があるが、元気にされているといいなと思う。

【バーンスタインのマーラー第九⑥】東大オケのマーラー第九(1)

必死のパッチで入手したアムステルダム・コンセルセルトへボウ管弦楽団とのマーラーの第九のCD。当時一聴して何より驚かされたのは、その悠然たるテンポ。初演者のブルーノ・ワルターの演奏時間と比較すると一目瞭然。

バーンスタイン・コンセルセルトへボウ(1985年):89分02秒

ワルター・コロンビア交響楽団(1961年):81分05秒

ワルターウィーンフィル(1938年):69分41秒

今から思えば、80年代はマーラーに限らず、また、バーンスタインに限らず、古典派・ロマン派音楽の演奏は、機械的な正確さから、より深い情緒、一言でいえばよりロマンチックな方向にシフトしていく流れが頂点に達していた時期で、上記の演奏時間の推移もその一環と思う。

CDを入手して約1年後、高2の頃だったと思うが、同級生の姉君が出演する東大オケの演奏会でこの曲をやるというので、聴きに行った。自分にとってのこの曲を初めて生演奏で聴く機会となった。

その時のパンフレットは指揮者の早川正昭氏が自ら執筆したものだったが、ちょうど上記の3つの録音の演奏時間について紹介があり、「自分(早川氏)は初演者ワルターの1938年の演奏スタイル・テンポへの回帰を目指す」といったことを書かれていたと思う。実際の演奏時間は覚えていないが、今思えば、80年代でも既にバロック音楽モーツァルトの演奏では市民権を獲得し、90年代以降はベートーヴェンやロマン派音楽の演奏でも大きな流れとなる、HIP(historically informed performance。作曲・初演時の演奏スタイルを意識した演奏)に近い考え方だったと思う。

 

 

【バーンスタインのマーラー第九⑤】コンセルトへボウ盤入手の思い出

今回は例のイスラエルフィルの来日公演と同じ1985年録音(発売は1986年)の、アムステルダム・コンセルトへボウ管弦楽団との正規盤の日本発売時のパンフレット。

この「新マーラー・サイクル」開始、それも最高傑作の「第九」の発売というのは、遠い極東で高校1年生だった自分にとっても事件だった。一日でも早く聴きたいという気持ちで、国内盤発売を待たずに輸入盤を入手しようと考えた。

当時はクラシック音楽の輸入盤は、タワーレコードもなく、マニアックな個人のお店で細々と扱っているような状況だった。専門誌の広告を頼りに、放課後、新宿、渋谷等のお店を幾つも転々した。途中、同時に発売された第七番は残っていたが、第九はどこも売り切れ。最後に、確か渋谷と代々木の間の山手線沿いのビルにあった「ジュピターレコード」とかいう小さな個人店で1セット余っていたのを掴むように手に取り、買ったと思う。

後知恵だが、プラザ合意の翌年ということもあり、輸入盤の方が国内盤より値段も遥かに安かったと思う。おそらく4000円台だったのではないか。当時の2枚組CDとしては安い。このパンフレットによれば、国内盤CDだと6600円とある。ちなみにアナログLPは5200円と今と違ってCDより安い。

この後、年2~3曲くらいのペースで、各交響曲の録音がリリースされ、いつも、そのしばらく前に、NHK-FMで、CDになる前の生の演奏会録音が放送された。1番、5番、6番のエアチェックのカセットテープが手元に残っているが、何度聴いたか分からない宝物のような記録である。

最近は少なくともクラシックでは、CD発売で、わざわざこんな手の込んだプロモーションはしないと思うし、そもそもほとんどの新譜がspotify等で無料で聴けるので、こうした苦労は何だか笑い話のようにしか聞こえないと思うが、そのせいか、いろいろ聴いても、右から左の耳に流れて忘れてしまう気がする。

 

 

【バーンスタインのマーラー第九④】吉田秀和氏の演奏会評から。

吉田秀和氏が残した音楽についての膨大な評論から、クライバーチェリビダッケバーンスタインについて書いた文章をまとめたものが河出文庫から出ている。

その中に、例の1985年のイスラエルフィルとの日本公演の演奏会評が収録されている。私が先般来騒いでいる東京公演ではなく、大阪公演の批評だが、当時、朝日新聞の文化欄で読んだことを思い出した。

「彼の指揮できいていると、この曲の「魂」が私たちに語ろうとしたのが、第一楽章では限りない悲哀と優しい慰めとの対話であること。第二楽章の各種の踊りは人生の変遷、変転、変貌の種々相であり、そこには死のにがい舞踊まで登場すること」

「第三楽章は行進、と同時に「人生とはどこに向かっての行進か」という疑問でもあること。そうして終楽章は祈願であること」

吉田秀和という人は周知の通り、大変なインテリで、文章も日頃は明晰で冷静さを失わない。これは例外的に興奮気味だが、名文だと思う。

それで思い出したが、中高時代の音楽の教師から、バルビローリの指揮するこの曲の第一楽章のレコードを聴かされた後、「これは何を語っているのだと思うか」と問いかけられたことがあった。言葉に詰まって黙っていると、これまた普段はあまり感傷的なことを言わず、控室で将棋だか碁ばかり打っていた教師が、「これは人生だよ。作曲者が自分の人生を語っている。僕はそう思う」と語った。

マーラー の第九という音楽は、大抵のものには驚きもしなくなった大人たちに、ティーネージャーのような感想を語らせる、それだけの力をもった音楽と思う。

 

https://l.facebook.com/l.php?u=https%3A%2F%2Fwww.kawade.co.jp%2Fnp%2Fisbn%2F9784309417356%2F%3Ffbclid%3DIwAR3Q1CQFGQVm1LxMZlyFyLxFKkchVc7eJRLLyoX2bLhkqJkpTJAg02GA6jA&h=AT3wlsBkLhZBZjmn9HDtujSeVjlWcR4yUOTDOrZxCzUYBfcwXTooHMgrzZiI_dZ8792PVwUMRschbhditeKke04MZz6BifXEyjXx6a7UGC573fbn1RMDdnchG1cTMYnYb6NsbBXL6llyAnkIx-c&__tn__=H-R&c[0]=AT2iOEWql7fcADbtuhCqW7MOVCoCC-ygbQCYjgBajSf68GuyW000iRmOOQ6g2uoNmrXRY_8qgSLkO1TnPbV7yPewWFsDrY-BB7naGPEsmgQk6_9Eb1f1PtZIGRiEEGgN8sTFyZ3JuMd0uRpJUAZgiO23DQ3cCuxv94ZxUA

【バーンスタインのマーラー第九③】高関健氏の証言

カラヤンのアシスタントをしていた高関健さんへのインタビューで例のバーンスタインVSベルリンフィル演奏会について言及があった。

「あの歴史的なバーンスタインベルリン・フィルとのマーラーの第9番も練習から全部見ました。あの時はすさまじかった。練習が全部できないうちにリハーサルの時間が無くなっちゃった。だからぶっつけ本番の部分もあって大変なことだったんです。2回本番があったけど、1日目だけしか録音していないはずです。だから編集したとかしてないとかいろんな話がありますが、編集などできるはずがありません。オーケストラがずれているところも多くて、トロンボーンが4楽章の有名なところで落っこってますね。でも聴いている方としては本当に素晴らしかった。」

この部分も面白いが、カラヤンのアシスタントをやっていたときのエピソードがなお面白い。

「ご褒美で4日後の木曜日に「コリオラン」序曲をなんと本番で振らしてくれたんですよ」

「練習で代わりに振ってみろって言われてすぐ振らされて、それがなんとかうまくできたので、それ以後はアシスタントとして使ってくれるようになりました」

「こだわりのあるような人ではなかったですね。ただし、これやれ、って言われてすぐその仕事ができないと二度と使ってくれない」

「舞台上には譜面台が置いてないんですよ(注:ご存じのようにカラヤンは暗譜で指揮をする)。どの曲が来ても暗譜で振ってうまくいかないと、カラヤンが怒っちゃう、という状況だったから」。

自分の職場でも、若い頃はいろいろと困難があって、ウルトラ多忙の中、上司が他に呼ばれてしまって、不意に本番を「振らされる」という緊張感は常にあった。高関さんのように「どの曲も暗譜」とまでは行かないが、いろいろと誤魔化しつつも、停まらないくらいにはやれるよう、頭のどこかでシュミレートはしていたと思う。というといかにも格好がいいが、単に、そうしないと死んでしまうから、そうするしかなかったというだけの話ではあるが。

どこの世界も同じ。

 

https://l.facebook.com/l.php?u=http%3A%2F%2Fwww.shinkyo.com%2Fconcerts%2Fp181-1.html%3Ffbclid%3DIwAR3Q1CQFGQVm1LxMZlyFyLxFKkchVc7eJRLLyoX2bLhkqJkpTJAg02GA6jA&h=AT21R3BH4C81qR0AbOXSUH2rMBVOkgh4kdQ-mPHVO2zNFfN3p3Ep1FyZZ5g2wxIPnqe_x5rOEwQeTryiyEx6NfpdQoM279pHwLnvo2B2yFxAymQph0gABtX8iKaOySI-F9_5idO0ullskc5gEbs&__tn__=H-R&c[0]=AT14gebf-7x0Qk3hoPRjDMv4I0vBsAyfRr2rElnleeV60LPoyVindNKPjhsTCtVUN_eqUy4wPdKED8gP5OI_7ZlvJETYm2jet5PDyArNN0hac-4s9CDeUVME2D33EzF20XBAPQLseijgUoqTNN6d1ovH-g

 

 

【バーンスタインのマーラー第九②】カラヤン執念の東京リハーサル?

徳岡直樹氏のオーラルヒストリー探求恐るべし。バースタイン・ベルリンフィルによるマーラー第9(1979年10月4,5日)に関連した追加情報。

(注)この話題に触れた徳岡氏の動画は、残念ながら徳岡氏のページがYoutubeからニコニコ動画に移転した際に消去されてしまった模様。

徳岡氏の打楽器の師匠という岡田氏(元N響の打楽器奏者とのこと)という方の証言。バーンスタインとの演奏会の直後、1979年10月に来日したカラヤンベルリンフィルの来日公演で、打楽器のエキストラとして参加した岡田氏。

この来日公演は、帝王カラヤンの絶頂期らしく、普門館という巨大ホールで、ベートーヴェンの第九、モーツァルトヴェルディのレクイエム、シュトラウスツァラトゥストラムソルグスキーの「展覧会の絵」等々、豪華絢爛プログラムを連日行うという、それ自体、伝説的なものである。

そのさなか、79年10月19日の本番の日に「展覧会の絵」のエキストラの打楽器奏者として岡田氏が宿舎の京王プラザホテルの大会議室でのリハーサルに向かったところ、「展覧会の絵」はそっちのけで、全然別の曲を練習している様子で、結局、呼ばれなかったという。「展覧会の絵」は、本番の会場でのゲネプロで通しただけだったという。ここまでは岡田氏の証言を信じるなら「事実」。

残念ながら、岡田氏から、この日に京王プラザでさらっていたのが「マーラーの第九」だったという直接の証言は得られていないようだが、徳岡氏は、その後のベルリンフィルの日程で、カラヤンが当日本番の曲をそっちのけでリハーサルを必要とする演目が他にないことを根拠に、日本の帰国後の11月22,23日に、カラヤンとして生涯初めて取りあげた「マーラーの第九」のスタジオ録音のリハーサルをしていたのではないかという仮説を立てている。

この妄想の逞しさが好きである。

徳岡氏は、さらに、当時の小澤征爾のインタビューから、70歳過ぎてマーラーの第九を勉強しはじめたカラヤンとこの曲についていろいろと話をしたというエピソードを発見。カラヤンベルリンフィルの日本からの帰国直後の11月12日にベルリンフィルを振った小澤征爾が、その際にカラヤンと会った際の話ではないかとして、その直前の来日中に「マラ9」をさらっていたことの状況証拠とする。刑事裁判なら証拠不十分だろうが、どうだろうか。

ちなみに、この79年11月のカラヤンベルリンフィルの録音、一般的には不評で、1981年に再録音したライブが絶賛されているが、自分自身は、案外、79年のスタジオ録音、カラヤンのスタジオ録音らしい、オンマイクの録音が好きで、高く評価している。発出時のこの虹のジャケット写真も、カラヤンの横顔アップの1981年ライブのジャケットよりもいいと思う。