ギュンター・ヴァント  90年代の 巨匠

15年前くらいに亡くなったギュンター・ヴァントというドイツの指揮者がいる。90年代半ばからその死までの数年間ほとんど「神格化」された存在になっていたが、80年代までは、堅実だが地味なドイツの中堅(といっても70歳を超えていたが)という感じで、特に目立つ存在ではなかった。べーム、カラヤンバーンスタインといった超スター指揮者との比較ではもちろんのこと、ヴァントが特に得意にしていたブルックナーの音楽の演奏に限っても、ジュリー二やチェリビダッケといった人の方が格上扱いだったと思う。

ヴァントは、実はN響が70年代から客演指揮者として招いていた。自分も高校生だった80年代半ば、N響とのブルックナーの演奏録音をFM放送で聴き、その引き締まった端正な造詣、「楷書体」の美に驚嘆し、録音したカセットを何度も聴いた。このN響とのライブが、ヴァントが後に手兵の北ドイツ放送交響楽団ベルリンフィル等と録音したCDの演奏と同水準とはいわないが、基本的な解釈は同じで、この極東の楽団の指揮台にいるのが只者ではないということを感じさせてやまない。ただ、N響においても、当時は、サバリッシュやシュタインといった他の常連のドイツ系の指揮者の方が格上扱い。また、80年代のN響ブルックナーといえば、マタチッチというユーゴの巨人、この規格外れの巨匠が遺した一期一会の壮絶な演奏(ブルックナーの8番。CDにもなった)の印象が強くて、「ヴァントのブルックナーが凄い」ということは、当時の自分の接する情報ではあまり聞かれなかった。嫌味な話であるが、私にとっては、「自分だけが知っている」「実は・・」的な、とっておきの隠し札的なネタの一つだった。

ところが、そのヴァントが、90年代半ばになってみると、いつの間にやら、「ドイツ音楽の伝統の守護神」「独墺音楽芸術の人間国宝」とでもいうような存在となっていた。私がミュンヘンにいたときも、地元の英雄チェリビダッケ、殆ど指揮をしなくなっていたクライバーと並んで、時折客演するヴァントの演奏会は、最もチケットが取りにくいものの一つだったし、うるさ型の多い地元聴衆の熱狂も凄かった。演奏もますます純化されて、枯淡の境地というか、修行を積んだ痩せた老僧を思わせるようなものに進化していた。聴いたプログラムも、記憶では、シューベルトの「未完成」とブラームスの一番の交響曲だったか。曲目から言って、ミュンヘンやウィーンあたりでは、よほどの実力者でない限り選ばないであろう、ど真ん中ストレートのレパートリー。特にブラームスの四楽章の最後等、カラヤンだってバーンスタインだってこれでもかというようにエネルギーを爆発させて勝利を歌い上げる場面だが、ヴァントは野蛮な盛り上がりとは無縁で、どこまでも禁欲的で品格を感じさせる演奏だった。

よく言われるとおり、ヴァントの演奏は、外見は、他の同業者でいうとシューリヒトの指揮したものに比較的近いと思うが、シューリヒトの演奏の魅力が速いテンポで淡々と流れていく中での自在な境地(心も体も自由に感じる)にあるのに対し、ヴァントの方はテンポその他は似ていても、むしろ贅肉を削ぎ落としていく自己規律の厳しさを感じさせるものだった。

いずれにせよ、ヴァントの音楽自体は晩年になればなるほど磨かれていった印象こそあるが、先にも述べたとおり、基本的な演奏スタイルは70年代のN響客演からあまり変わっていない。変わったのは、周りの状況で、特に、べーム(81年没)、カラヤン(89年没)の両巨頭がいなくなったことが大きい。チェリビダッケは亡くなったのは96年だったが晩年の数年間は総じて健康が優れなかったし、ジュリー二も90年代半ばの実演の印象は名声に比して精彩に欠くものだった。アバドベルリンフィルを率いた90年代は総じてスランプだった印象。そうした中で、ヴァントが、本拠地のハンブルクはもとより、ベルリンやミュンヘンへの客演であれ、どこであれ、同じように煉瓦でも積むように実践を続けている間に、周囲のライバルが次々と姿を消し、気がつくと、比較を許さない圧倒的な存在になっていたというようなことのように思われる。

人間、やはり生死のタイミング(世代)によるライバルとの巡り合わせによる運・不運はあると思う。たとえば、丸山真男が「長年どこも取り柄がなかったが、晩年には後光が指した」というヨッフム(87年没)があと10年若ければ、ちょうどヴァントの位置に収まったのではないかという気がする。ヨッフムが最後の輝きを見せた80年代半ばは、カラヤンをはじめ、錚々たるライバルがまだ健在だった。そもそもヨッフムが生涯を通じて世間的なステータスで(注:芸術的価値の意味ではない)今ひとつ大きく飛ぶ抜けた存在にならなかったのは、8つ年上のカール・べームが、彼と似たタイプの先輩として「君臨」し続け、カラヤンとともに、欧州楽壇の日の当たる地位と機会を独占し続けたことも大きいと思う。

逆に言えば、べームが「オーストリア共和国音楽監督」(墺政府が送った正式な名誉職らしい)として君臨し続けられたのも、世代による運があると思う。べームの場合、少し上の世代の巨匠たちが1960年代くらいまでに相次いで世を去り、人生の残り20年近くの年月をカラヤンと棲み分けつつ、ライバル無しで過ごせたことが大きい。フルトヴェングラー(54年没)、クナッパーツブッシュ(65年没)、シューリヒト(67年没)、クレンペラー(73年没)等々。新大陸に渡った人でも、トスカニーニ(54年引退、57年没)、ワルター(62年没)、セル(70年没)等。仮にこうした「神々の時代」がもう長く少し続いていたら、独自の強い個性があるカラヤンはともかく、比較的オーソドックスなスタイルのべームが、ポストその他の意味でどこまで活躍できたかどうかは疑問が残る。

「よきライバルと切磋琢磨」とはよく言われるが、世間的な栄達だけの観点からは、有力なライバルの存在のために割を喰うケースは日本の会社を見ていてもあるし、そこには明らかに運・不運があるように思う。もっとも、「割を喰ったこと」が、本人の芸術なり、業務の上での本質的な価値とは関係がないことは言うまでもないが。