今日は、昨日の続きで「神々の黄昏」の序幕を聴いている。序幕の中の「夜明けとジークフリートのラインの旅」は、高校時代から特別な愛着を感じ、繰り返し聴いてきた場面である。
特に冒頭の空が微かにピンクに色づき始め、それが次第に力を増して、最後には強烈な日光が差してくるような音楽の描写は、実際に山の上から見る夜明けの光景そのものだと思う。
中高時代の夏休みには、昆虫採集で山や公園で野宿に出かけるのが常だったが、特に高尾山というのは素晴らしいところだった。
ケーブルカーの終電も過ぎると、同業の虫屋以外には人の気配もなくなり、薬王院の階段のあたりまでの薄暗い道を歩く。ときどき頭上をバサバサという音がして、これはムササビなのだが、昔の人はこれを天狗と思ったのだろうと思いながら進む。
山の薄暗い夜道を、森林の匂いをかすかに嗅ぎながら進む。ニーチェの「ツァラトゥストラ」にも頻りに山の夜道を進む描写が出てくるが、読むと、いつもあの匂いを思い出す。
種類によるが、午前3時くらいを過ぎると、虫もあまりとれなくなり、ベンチに横たわって小憩する。真夏でも地面に直接には断熱材を敷かずには寒すぎてとても寝そべれないこともこうした中で学んだ。
そして4時前後になると、群青色の空の隅から、かすかにピンクともオレンジともしれない色が現れ、次第に雲がピンク色に染まり、この世のものとも思えない絶景が続く。しかし、それも日の出までで、それと同時に、下界の八王子市なのかコンクリートの街並みが現れ、現実に引き戻され、表参道を下って、京王線高尾山口駅に向けて、帰宅の途に着くのだが。
ワーグナーの音楽はもちろんそこで終わらず、その後は、ブリュンヒルデとジークフリートの愛の二重唱につながる。今日、聴いているフルトヴェングラーの演奏は、単純に愛の情熱が燃え上がるというよりは、どこか破滅の予感を感じながら、今の幸福を懸命に生きるといった不思議な味わいを感じさせる。いろいろな演奏で聴いてきたが、こういう印象を受けるのはフルトヴェングラーの二種類の録音のほかない。