フルトヴェングラー・スカラ座「神々の黄昏」第二幕、第三幕(1950年)

昨日の続きで、「神々の黄昏」の第二幕、第三幕を聴く。1950年のフルトヴェングラースカラ座のライブ。

やっぱりフラグスタートの歌唱が凄い。第二幕で、裏切りに激高して復讐を誓う場面は、この長い四部作の中でもとりたてて魅力的でない部分だけど、70年近く前の古いライブ録音の中から、彼女の声だけが天に突き抜けて行く感じ。月並みだが「なんという声。なんという歌」とでも言うほかない。最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」でのモノローグも何かが憑依しているようで凄い。声の質は、月の光のように冷たく冴えてよく通る声。間違っても慈愛に満ちた母親の役などではなく、この威厳に満ちた「女神」の役があっている。

出身のノルウェーのハ-マル市にフラグスタート博物館があるらしい。さすがに今後も行く機会はないと思うが。
https://kirsten-flagstad.no/en

それに比べると他の歌手陣は当時の一流メンバーと言うのが世評だが、たとえば60年代のバイロイトチーム(ウィンドガッセンほか)に比べると遜色あるように思う(特に第二幕まで)。ただ、話がいよいよ大きく動き出す第三幕では、死の場面で劇的な(ある意味かなり芝居がかった)歌を聴かせるロレンツのジークフリート、その後、ついに大悪玉としての本性を表すウェーバーのハーゲン、哀れなコネツネのグートルーネ(彼女は「ヴァルキューレ」でのジークリンデでも運命に翻弄される女性を好演)、最後まで頼りない御曹司ヘルマンのグンターと、それなりにいい感じを出している。

それにしても、やはり、舞台の下でのフルトヴェングラーの魔法のタクトとそれに機敏に反応するスカラ座管弦楽(特に弦)の支え無しにはこの演奏は成り立たなかったろう。分かりやすい部分では、葬送行進曲の中間部(スコアで「徐々に霧が立ち込め、徐々に舞台全体を覆う」とあるあたり)。以前も書いたことがあるが、執拗に上を目指してヴァイオリンの三連符の音型が、最後は力尽きて暗いチューバ等の下降音型に呑み込まれていくあたりは、変化が微妙過ぎて言葉では表現しようのない19世紀後半のオーケストラ芸術の精髄のような表現だが、フルトヴェングラー以外の指揮者では聴けない。

更に重箱の隅をつつくような話だが、不吉な予感で目をさましたグートルーネが、良い関係になろうと努めるも、やはりどこか好きになれない兄嫁(ブリュンヒルデ)のことをグズグズと考える場面での、弦と木管(特にファゴット)が交差する音楽は、物事を良くない方向に考えがちな薄幸な女性の不安を異常に雄弁に表現している。これまで何回となくこのオペラを聴いて、ほとんど耳に残ることのなかった部分である。フルトヴェングラーというと、あの巨大な身振りのクレッシェンドとアッチェレランドのイメージがあるが、それと正反対の異常なまでに繊細な表現と、それに見事に応えるスカラ座の音楽家に脱帽するほかない。

その後も、「ブリュンヒルデの自己犠牲」でフラグスタート絶唱が延々と続く中で、オケの方も隠し味のような絶妙な技を繰り広げている。たとえば、「太陽にように彼の光は(Wie Sonne….)」とフラグスタートが新しい節を歌い始める直前のチェロの柔らかいフレーズ、その直後の「友に忠実(Freund…)」と歌う直前のヴァイオリンのトリルの室内楽のような親密さ。楽譜には確かにそういう音符は書いてあるのだが、これまでの演奏でこの部分が耳に飛び込んできたことはなかった。4時間余りの長いオペラのライブの最終盤で、こういう細かい部分が見事に表現されるのは本当に凄い。

最後に、ブリュンヒルデが炎の中に突っ込んで行った後の、オーケストラだけの終結の音楽。この部分、普段はブリュンヒルデが歌い終えたところで何となく終わった感があり、実演でも何となく付け足しのようでパッとしない感じがすることが多いが、この録音では、大きなうねりのある波が何度も押し寄せてくるように非常に活き活きとした音楽となっており、ラインの水で指輪の呪いが浄化された後、新しい人間の社会が生まれてくる期待を感じさせる。

既に書いたように、このフルトヴェングラーの演奏の「ジークフリート」の終幕や「神々の黄昏」の序幕の愛の二重唱等の場面で濃厚に「滅亡への予感」が感じられるが、それがこの第三幕の「自己犠牲」の場面で現実のものとなった後に、新たな社会の建設への希望が残っていたという意味で、非常に救いを感じる終幕となっていると思う。

最後の弾ける様な聴衆の拍手を聴くと、ひょっとすると、1950年頃のドイツやイタリア社会の雰囲気も、悪夢から覚めた後の希望のような気分に近いものがあったのかもしれないとも思う。もちろん、アウシュビッツをはじめとする現実を「悪夢」で片づけてよいものではというのは当然のことではあるが。