ヤルヴィ・N響のブルックナー第七番ウィーン公演 現地での評価

欧州由来のクラシック音楽を日本人が欧州人の前で演じるときは、欧州人側には一定の好奇とバイアス、偏見があると思う。歌舞伎を欧米人が演じるようなものと思えば当然ではあるが。

こういうこともあって、日本人が演じ、作曲するクラシック音楽が欧州人にどういう受け止められているかについては常に関心がある。ここであえて「欧州人」といっているのは、詳述は省くが、米国人はクラシック音楽については欧州人と事情がやや異なるからである。

その意味で、今回のN響欧州公演のうち、ウィーンやベルリンでやったブルックナーの7番メインのプログラムというのはあまりにも挑戦的な試みで、現地での受け止めに関心があった。はっきり言えば、心配だった。いかに彼の地でも評価が固まったヤルヴィを指揮台に擁するとはいってもである。

20年前にベルリンにいたときにN響デュトワと来たときは、メインはプロコフィエフの7番だった。これはデュトワらしい巧妙な選曲で、ロシアというのは、ドイツ人にとってはヨーロッパとアジアの間みたいな感じの存在で、プロコフィエフでもときどき顔を出すメランコリックなメロディはどことなく異国風で、極東のオケが演じてもあまり違和感がないのは明らかで、地元の聴衆にも好評だった。今回もロンドンやアムスではラフマニノフ2番メイン。ベルリン・ウィーンもこれだったら無難ではあったろうと思う。

事情は一切しらないが、ヤルヴィ・N響とも、意図的に無難を避けて、自らの信じるブルックナーを本場の聴衆にぶつけにいったのではないか。さすがに「ベルリンやウィーンの聴衆はブルックナーの方が好きだろうから」という能天気な選択ではないと思いたい。

それでどうだったか。ウィーンの公演については主要紙に批評がでている。

DerStandardは、冒頭から「クラシック音楽では、欧州の対日本での圧倒的貿易黒字が続いているなかで、日本のN響が挑戦してきた」という書きぶり。
最初の演目の武満についても、「欧州の影響が顕著で、ドビッシー、マーラーコンコルドのようだ」というのみ(武満の作品を珍しがっている時点で米国の批評家とは随分違う。はっきりいえば視野が狭い)。
その後のブニアティシビリとのべートーヴェンの第三協奏曲については、ブニアティシビリは激賞しつつ、N響の導入部の伴奏については、「眠くて、だらしなく、泡のようだ」と散々な言い様。
ただ、ブルックナーについては、「この特別なソリスト(ブニアティシビリ)は残念ながら一緒でない」としつつも、「ヤルヴィはこの大曲を素晴らしく祝福した」「ただ、折角の日本人の素晴らしい演奏は、管楽器の多くのミスで傷がついた」と、ミスはあったが悪くはなかったというニュアンス。
ただし、最後に3時間近くかかったプログラムは長すぎたとチクリ(おかげでブニアティシビリもアンコールを短かく切り上げたとの恨み節まで。この批評家はどこまでブニ好きなのか)。
https://www.derstandard.at/…/nhk-symphony-mit-buniatishvili…

Wiener-Zeitungは、「口が悪い者は日本にはウィーンよりも長いブルックナーの伝統があるという。あの伝説の朝比奈=大フィルを超えて、日本のオケにはブルックナーとの特別な関係がある」と、これまた今回のN響の挑戦に刺激された書き出し。
その上で、この日の演奏がN響にとってベストでなかったとしても(管がいろいろミスしたというようなニュアンス)、伸び伸びと大きな響きで弾かせていて、両端楽章を中心に、非常に印象的なブルックナーだと好意的な評価。
興味深いのは、ヤルヴィのフランクフルト放送響との同じ曲の演奏(おそらくCDのこと)はもっと痩せた(すっきりとした)演奏であり、今回、ヤルヴィはN響とその伝統にかなり任せていることは明らかとしているところ。欧州公演前の東京公演をFM放送で聴いたが、かなりすっきりとした痩せ型美人みたいな、典型的なヤルヴィ流のブルックナーと感じたので多少違和感はある。
そのほか、ブニアティシビリと一緒のベートーヴェンの第三ピアノ協奏曲や武満についても、概ね好意的で、DerStandard紙のように底意地の悪いことは書いていない。
https://www.wienerzeitung.at/…/2052521-Konzerthaus-Lauschen…

ブルックナー自身も悩まされたハンス・リック以来の辛口批評の伝統があるウィーンでの評価としては、まあよく踏みとどまったというところか。

ベルリンでの同じ曲の演奏の評判がどうだったかも、見てみたい。