映画ボヘミアン・ラプソディ―のあらすじへの荒唐無稽な感想(パルジファルと似てない?)

DVDになった「ボヘミアン・ラブソディ」をようやく観た。クィーンの曲はあまり聴いたことはなかったが、メロディアスで和声も美しい歌につぐ歌を楽しむとともに、俗な言い方だが天命を悟った後の主人公の生き方に普通に感動した。あわせて、しばらく前にNHKのコント番組「ライフ」でやっていたこの映画のパロディも読み解いてすっきりしていた。

他方で、この一週間、映画のストーリーが転機を迎える場面、ポールとの酒池肉林の生活を後にしてクィーンのメンバーの元に戻ることを決意する雨のシーンについて、何かデジャブ感があって引っかかっていたが、今朝、ようやく思い当たった。なんと、ワーグナーの「パルジファル」の第二幕のシーンだった。(以下、マニアックな長文注意。「パルジファル」のストーリーをご存じだったらどうぞ)。

あの第二幕で、パルジファルがクンドリとの接吻で俄かに天命を悟る場面。母のような愛情でフレディを支えてきたが、自らの救いも必要とするメアリはまさにクンドリ。かつての仲間のところに戻ることを決意するフレディはパルジファル。「お前のセクシャリティを公表してスキャンダルにしてやるぞ」とフレディを引き留めようとするポールは、堕落した騎士にして魔術師のクリングゾール。ポールを振り切って、フレディが決然と去っていくシーンは、「パルジファル」の第二幕の最後にそっくり。
そう考えると、戻ってきたフレディを受け入れ、クィーン(=騎士団)への受け入れを支援する弁護士のマイアミはグルネマンツ。フレディ不在で精細を欠いていた感の他のクィーンのメンバーはパルジファル帰還前の衰退した騎士団の感じにも通じる。そして、最後のライブエイドのシーンは、「パルジファル」第三幕の最後の聖杯の儀式。フレディが振り回すマイクスタンドは、パルジファルが奪還した聖槍というところか。
それでも少し調整が必要な部分がある。最後の聖杯の儀式の中で安らかに息を引き取るアムフォルタス王は、フレディ自身でもあるだろう。アムフォルタス王は聖杯の騎士として禁忌の性的誘惑に負けた結果、聖槍で治癒することのない傷を脇腹に得て終生苦しんだが、それはフレディを苦しめた病いに対応する。映画では、不治の病で肉体的にはやがて死を迎えるフレディが、ライブエイドのコンサートで聴衆と心を通じ合うことで、生きた証を感じた(いわば自らの魂を救済した)というストーリーになっていた。そうだとすると、フレディは、アムフォルタス王と、その魂を救済するパルジファル一人二役で兼ねていると言い得なくもないだろう。

そこをそう解決すると、人生の成功者で息子にも「善行を積め」と小うるさいフレディの父親は、アムフォルタス王の父親で、息子に義務である聖杯の儀式の執行を求めるティトゥレルに対応すると読み解くこともできる。

ジム・ハットンに役が無いと気の毒なので、彼には、第三幕でのクンドリの役を割り当てたい。クンドリは第三幕で、パルジファルの足を洗い、香油を振りかけて、グルネマンツとともにパルジファルに仕える。第二幕までのクンドリはメアリと二人一役になる。

ワーグナーのオペラの「読み替え」は本家バイロイトお家芸で、しばらく前も、イスラム国とトランプを彷彿とさせる危険な「読み替え」をやっていたが、さすがにボヘミアン・ラプソディへの「読み替え」はやってほしいが、なかなか難しいと思う。日本はこれだけクイーンが好きな人が多いようなので、新国あたりでやらないものか。

パルジファルフレディ・マーキュリー

アムフォルタス:フレディ・マーキュリー一人二役

クリングゾール:ポール・プレンター

クンドリー:メアリーとジム・ハットン(二人一役)

グルネマンツ:ジム・ビーチ(「マイアミ」)

ティトゥルス:フレディの父親

他のクィーンのメンバー:騎士団のメンバー