「ニーベルングの指輪」(カール・ベーム、バイロイト)

ここしばらく、通勤途上に、ベームの「指輪」を聴いている。片道30分程度なので、二週間で四部作全部が聴く計算になる。
 
ベームの「指輪」をじっくり聴くのは、中高時代以来、約30年ぶりになるが、細部に至るまで、当時の記憶と感動がよみがえってくるようで不思議である。その後は、ハリウッド的な意味で音響的によくできているショルティの録音、オーケストラが黄金色のシャンパンのように響きのスタイリッシュでゴージャスなカラヤンのもの、限りなくロマンティックでありながら、どこか終末に向けた寂しさの漂う不思議なフルトヴェングラーのアルバム、細かいことは気にしない、大らかで気楽な感じが魅力のレヴァインのものと、長い間、浮気ばかり続けてきたが、改めて久しぶりに聴いたベームの「指輪」は素晴らしいと思う。
 
一言でいえば、質実剛健で無駄・曖昧を排し、細部に至るまで正確さを極め、健全でエネルギーに満ちた音楽である。早めのテンポ、引き締まった響き、いざというときの叩き付けんばかりの金管や打楽器の強奏。ベーム本人は自らの演奏を「モーツァルト純化されたワーグナー」と称していて、そのままでは意味が分かりにくいが、要は、複雑膨大なワーグナーのスコアを、モーツァルトの音楽をやるときと同様、各楽器・声部のバランス、音量・テンポを厳しく制御し、かつ、同時に、あふれんばかりの生命力をもって再現したということが言いたかったのではないかと思う。
 
どんな音楽もそうだが、知らずと時代背景の影響を受けているように思う。ベームの録音を聴くと、いろいろと話に聞く、60年代終わりまでの戦後西ドイツの健全な社会を感じる。質実剛健で、正確・勤勉。当時から世界に輸出されて、愛されていたフォルクスワーゲン社の作る車と同様の「品質」を感じる。
 
他方で、こうしたアプローチゆえに抜け落ちているものを感じなくもない。「指輪」でいうと、ジークフリートの死、葬送行進曲、ブリュンヒルデの自己犠牲と続く、破局に向けた幕切れは、音響的には非常によく鳴っていて、素晴らしい響きを立ててはいるが、その響きの向こうから、何か、しみじみ、しとしとと押し寄せてくる情感というか、虚しさというものはあまり感じない。そういうものはフルトヴェングラーの古い録音で一番痛切に感じるのだが。その辺も、ナチズムの悪夢を経て、「大きな物語・神話」というものと縁を切り、目と耳で見え、感じることができる「リアルなもの」を大事に生きることに徹していた当時の西ドイツの音楽らしいのかもしれないが。
 
 
それにしても、大勢の人間が集まっての仕事やプロジェクトに参加したことがある人なら分かると思うが、そうした共同作業というものは各構成員それぞれの能力、心がけと、相互の相性と偶然が重なって、そこで生じていることの全てを制御している者は通常誰もおらず、「責任者」というのは、自分の責に帰すべきことでないことも含めて、プロジェクトの結果の責任を取る役割と割り切るしかない場合が多いようなものとなっているのが現実と思う。ワーグナーの楽劇のように、人間の体力の限界に近いような長大で困難な声楽パートを歌う歌手と、百人ものオーケストラ・合唱団が物理的な音を出すプロジェクトともなると猶更で、正直、指揮者がどれだけ統制できるのか、疑問があるどころの話ではないと思う。そうした中、ベームのものだけでなく、ショルティカラヤンフルトヴェングラー、いずれの「指輪」も歌手やオケの個性もさることながら、いずれもくっきりと指揮者の個性が刻印された音楽となり、「ベームのリング」「ショルティの録音」と呼ぶに相応しいものとなっていることも驚くべきことではないかと思う。