Kathleen Ferrierの伝記2(晩年)

しつこいようですがFerrierの話の続きです。読みかけだった伝記(Kathleen: The Life of Kathleen Ferrier 1912-1953)を、病と闘った晩年の2年間部分も含め読了しましたが、これまで誤解していたことにいろいろ気づくことが多かったです。
 
フェリアーの晩年は日本の好楽家の間でも半ば神話化されているところがあります。
 
乳癌に倒れた後、結果的には死の前年(19525月)に行われた、ブルーノ・ワルターとのマーラーの「大地の歌」の録音は、楽曲自体の性格(マーラー自身のこの世との別れの音楽)も相まって、フェリアー自身の「白鳥の歌(この世との別れの歌)」であることを意識しながら行われたと理解されていると思われます。
 
また、スタジオで確認のために録音を聴き直し、最終楽章が静かに消えて行った後、しばらくの間、誰も口を利くことができず、ついにフェリアーが口火を切ってワルターに対して「Am I all right? (これでよかったのでしょうか)」と尋ねたときも、マーラーの愛弟子だった老指揮者は感極まって、なお何も言葉にすることができなかったというエピソードも、あたかも、この録音がいわばフェリアーの音楽的生前葬であったかのように理解される原因となっていると思われます。
 
その後、19532月のバルビローリ指揮の「オルフェオとエウリディーチェ」(グルック作曲のオペラ)では、2回目の公演の最中に左足が動かなくなったにもかかわらず、そのままの位置のまま歌い続け、最後まで公演を乗り切ったというエピソードについても、満身創痍な中、死を覚悟して聴衆に別れを告げるために、舞台に上がったというように理解されていると思われます。現に、この公演を実際に聴いていた聴衆の一人が、「フェリアーは神々しいばかりに美しく、『彼女は自分は間もなく死ぬことを知った上でステージに上がっている』と感じた」といったという証言をしています(フェリアー生誕100周年で発売されたデッカ全録音のCDボックスの付録のDVDでもそういう証言が出てきます)。
 
しかし、Maurice Leonardによるこの伝記を読むと、どうも事情が違うようです。結果的には、上記の2つの演奏はフェリアーの最後のパブリックな演奏の一つであり、かつ、いずれの時点においても、病状は極めて深刻であったことは間違いありませんが、この伝記で紹介されている本人の手紙や様々な客観情勢を見ると、フェリアー本人は(そして周囲の親しい人々も)、深刻な病状にもかかわらず、これがワルターとの最後の演奏、公衆の前での最後の演奏になるというようには全く思っていなかったということです。フェリアー自身、体の痛みのことを、真の病名を知っている親しい知人への手紙でも、あえて「リューマチが酷くてつらい」「自分も随分歳を取ってしまった」と語っており、痛みの原因は本当はそうではないことは重々知りつつも、放射線治療による全快を信じていたように思われます。また、体調が良いときは、家にバルビローリを初め、友人を次々と招待しては、美味しい料理(特にバルビローリお手製の料理)を平らげ、シャンペンを開け、また、趣味の絵を次々と描き、新たにロージーという名の猫を飼い始め、庭には花壇を作りと、演奏旅行に追われていた時期にはできなかった楽しみを見つけて、毎日を楽しんでいたといいます。病院入院中も、夕方になると、「バーがオープンよ」と言って、カーテンの陰に隠していたワインのボトルを持ち出して、見舞客に振る舞っていたと言います。また、53年の夏には、最後まで、エジンバラ音楽祭でワルターのピアノ伴奏での独唱会への出演を予定しており、彼女がワルターとの共演を何よりも大事なものと考えていたことを考えると、主観的には、この独唱会に出ることができると考えていたことを間違いないと思います。
 
もちろん、日々体調は悪化していきますし、そのことは本人も誰よりもよく分かっていたと思いますが、最後まで前向きに人生を生きて行こうとする「強さ」、冬の空のような澄み切った「明るさ」こそ、彼女の持ち味だったと思いますし、残されている「大地の歌」の最終楽章(「告別」)も、よく聴くと、「これが自分の最後の演奏かもしれない」といったセンチメンタリズムよりは、そうした彼女の「強さ」「明るさ」が聴こえるような気がします。