先週日曜日は、藤田真央を追っかけて、宇都宮まで、餃子も食べずに往復5時間強のところを行ってきました。
モーツァルトの21番、27番のコンチェルトと、40番のシンフォニー。
真央氏のピアノはそれを裏切らず素晴らしく、テレビやラジオで聴くのと同じまろやかで表情豊かな音。
21番はかなり表現意欲全開で、カデンツァも自作なのか19世紀のヴィルトゥオーゾあたりの作なのかは分かりませんが、長大でクリエイティブ。40番の交響曲の主題も織り交ぜたようなユニークなもの。ある意味やり放題。
他方で、27番は、死を目前にしたモーツァルトの清澄で諦観に満ちた楽曲に敬意を表してか、余計な装飾音はほとんど加えず、カデンツァも普通に弾かれているシンプルなものをそのまま弾いていました。それだけで涙が出るほど嬉しい。
残念なのがオーケストラ。一人一人技術的に大変上手なのは分かるのですが、弦も管も音量が常に大きすぎでピアノの音が聴こえなくなる場面もしばしば。音量の問題だけでなく、全体にマッチョな音楽性というか、ショルティのシカゴ響の室内楽版といって伝わるか分かりませんが、力まかせにゴリゴリ押してくる、ロシア人のレスリングみたいな音楽性が、真央氏やモーツァルトの音楽と深刻なミスマッチを起こしていたように思いました。
これは若くてイケメンの指揮者氏の責任も一部にはあるのかもしれませんが、FM放送で聴いた、指揮者抜きのコンミスの弾きぶりでの、真央氏とのモーツァルトの20番の協奏曲でも感じたことなので、アンサンブル金沢の性格なのだと思います。
バルトークとかやるならそれでいいと思うんですけどね。
昔は、マリナーのアカデミー室内管弦楽団とか、イギリス室内管弦楽団、パイヤール室内管弦楽団とか、小編成でも艶のある美しく、あまり極端なことをしない室内楽団がいたと思うのですが、真央氏がモーツァルトの協奏曲でCD等を作るときは、ぜひそういうグループと組んで録音して欲しいと思った次第。
真央氏は今週25日はカーネギ―ホールデビューか。体調だけ崩さなければ、心配いらないと思いますが、模様を知りたいです。
https://www.oek.jp/event/4636-2
2022年 バイロイト音楽祭
ドヴォルザーク・チェロ協奏曲
ドヴォルザークのチェロ協奏曲。何となく昔から馴染んでいるせいもあって通俗名曲という感じがしてしまっていたのですが、19世紀後半に西洋音楽が達した異常な高みの一つを画するような作品であると実感します。
そんなに難解なものは何一つないのですが、
・全体にただよう諦観
・それにもかかわらず、少しでも善なるものを成し遂げようとするようなヒロイックな気分
・はるか遠く、届かないものへの思い(それが故郷のことなのか何なのかは分かりませんが)
・春の満月の夜更けを散歩しているときのような、静かで充溢した気分
といった様々な人間の感情が、独奏チェロと金管、木管、弦楽器とその組み合わせで40分もの間、次々と休む暇もなく描かれる様子は、圧巻としか言いようがありません。
特に、ここでいうヒロイックな気分というのが、ベートーヴェンの「エロイカ」のような超人的・世界史的英雄といったものとはまったく違って、その辺りにいる、少し草臥れた中年のおじさんが、「もういっちょ、世のため(あるいは家族や自分のためかも分かりませんが)頑張るか」といって立ち上がっているような感じというのでしょうか。しかし、そこに何か大変な人生の厚みを感じるものがあります。少し違うのですが、分かりやすいもので似たものを探せば、フーテンの寅さんに感じる人間的魅力といったらよいでしょうか。西洋音楽の中でもこういうことを感じさせるのは、自分の知る限りでは、ドボルザークとブラームスのいくつかの作品だけです。
キャスリーン・フェリアー「きよしこの夜」
クリスマスソングは数あれど、結局のところ、「聖しこの夜」が一番好きだ。キャスリーン・フェリアーの温かく、深い声。
大地讃頌と佐藤真
大地讃頌のオーケストラ版。やはり、本来は「カンタータ 土の歌」の第七楽章ということなので、オケ伴奏版の方がやっぱりいい。曲の終結部分で「母なる大地をああ」「讃えよ大地をああ」と繰り返すところの間で、ホルンが四本くらい揃ってシーラーソーファーと降りてくるところとか、本当に格好いい。ホルンが何本が揃ってゆっくりとしたメロディーを奏でるときは、いつもアルプスとかフィヨルドとか大自然を彷彿とさせる。
https://www.youtube.com/watch?v=mFcaPJG5P-A
こんなピュアな曲を書くので、作曲者の佐藤真は、画家でいうと熊谷守一みたいな素朴な(素朴そうな)人物を長いこと想像していたが、数年前に読んだ、宇野功芳氏との対談では、モーツァルトだがマーラーだかの作曲技法について専門的で鋭い指摘を素人にも分かるような言葉で色々とされていて、やはりプロの作曲家はすごいなと思ったことがありました。まあ、自分の独断と直感だけで勝負し続ける宇野先生も「プロ」の評論家としてすごいなとは思いますが。
フルトヴェングラーのベートーヴェン第五
シャイーという現代を代表する巨匠のベートーベンをボロクソにこき下ろしたので、ちょっと不安になって、自分にとっての出発点だったフルトヴェングラーの5番をyoutubeで再確認。あながち見当違いなことを言っていたわけではないことが分かり、安心しました。冒頭のジャジャジャ・ジャーンというテーマからして、何か異様なものが降りかかってくるみたいでものすごいですが、そのあとも、音楽が一しきり盛り上がって頂点に達した「ソ」の音が、虎が跳躍するみたいに長ーく伸び(0:23あたり)、その後の長い休符の後に、またジャジャジャ・ジャーンと入ってくるあたり。怨念に満ちていて異様な音楽ですが、ベートーヴェンなんて手紙を読んでもクレイジーで、その音楽ももともとそういうもので、その辺を洗い流して小奇麗に処理してしまうと、見た目は良いけどまるで味の薄い水っぽい野菜を食べさせられてしまっているようなものだと思うのですが。なんか最近20年くらいは、ピリオド奏法の影響か何かしらないけど、5番なんかも小編成で、ちまちまやるのが賢い(よく勉強している)みたいな感じで、プロの人達は、そういう潮流を無視してやるわけにはいかないのでしょうが。
この演奏、むしろ後半が更にすごくて、ヌーッと薄気味悪いものが背中を通っていくみたいに始まったスケルツォは、4:58~あたりからの長いトンネルに板って、それを抜けた後に光が差してくるみたいな「シ」の音が長~く長~く伸ばされた後(5:41~5:47)、フィナーレに突入します。そのあとも、11:56くらいから、ガッ、ガッ、とテンポを上げていき、その勢いのまま最終音に至ります。スリリングな即興演奏のような音楽で、クラシック音楽は楽譜通りに大人しく正しく弾く退屈な音楽というイメージと最も遠いところにある音楽と思います。