パルジファルと事業再生

イースター。昔、ドイツで何年か過ごした頃、厳しい冬を超えて、日が長くなってきた頃のイースターの喜びはひときわで、以来日本にいてもこの時期はワクワクする。

 

イースターといえばパルジファル。ドイツ語圏ではこの時期に上演されることが多いので、日本にいてもこの時期になると毎年、あの変化して止まない、玄妙なハーモニーに浸りたくなる。

 

最近は仕事で事業再生の話を聞くことが多いので、パルジファルの物語が、何やら事業再生前の破綻寸前の会社のように思えてくる。

 

聖杯騎士団は、コア技術の一つの聖槍を元従業員クリングゾルに持ち逃げされた破綻懸念会社。

アムフォルタスはやる気の無い二代目社長。創業者で父親のティトウレルや従業員である聖杯の騎士達から、祖業である聖杯の儀式を求められ、必死で抵抗するあたりは、経営難で混乱する会社そのもの。混乱する中、怪しい素性の女クンドリなども勝手に出入りする中、みな救世主が現れるのを待っている。

 

自分が最初に見たパルジファルの演出では、始まる前の幕に、Erlöser der Erlöser (救世主の救世主)とベタベタと書いてあるのが印象的だった。聖杯騎士団という、民を導き、救済する使命を帯びている集団が、まずは救済を必要としているということか。

 

 

バルシャイのモーツァルト

バルシャイと言えば、ショスタコーヴィッチの死者の歌とか、弦楽四重奏八番の弦楽合奏版といったハードで怖い音楽の専門家というイメージだったが、こんな素晴らしいモーツァルトも残していたとは。

 

全体のがっしりとした骨格はベームに似ているが、よく歌うところはワルターのよう。

 

60年代のソ連は思想的には自由がなく重苦しい社会だったろうと思うが、この音楽には冬の曇り空に時折さす日の光のような瞬間、微笑みがある。

 

https://m.youtube.com/watch?v=443Jf_Snxwo

 

上岡さん、二期会のモツレク

行ってきました。上岡さん、二期会モーツァルトのレクイエムのコンサート。

圧巻の上岡流。超高速でありつつニュアンスに富む、清新なモーツァルトでした。マニアにはシューリヒトのよりシューリヒトらしいと言いたくなるような。

「呪われし者」の後半で女性パートがOro supplexと切々と訴える部分など特に感度的でした。f:id:strassberger:20231210223249p:image

詩篇交響曲との組み合わせというのも良いプログラム。

今回のはプロジェクトIということで、来週には上岡さんと二期会で、オランダ人をやるそうな。楽しみです。

 

 

藤田真央 カーネギーホールデビュー(23年1月)

(23年1月27日に書いた記事を収録します)。

ニューヨークタイムズの藤田真央のカーネギーホールでの演奏会評。

サブタイトルでは「独自の魅力はある演奏だが、根本的なところでは作曲家達とconnect できていない」と辛辣なことを書いていますが、何しろタイムズはあのバーンスタインも散々悩まされたメディア。相変わらず毒舌ぶりを発揮しているということか。

他方で本文を読むと、既発売のモーツァルトの全集CDの録音と比べてどうだったとか、かなり研究をして書いていて、この若いピアニストへの関心の高さが感じられます。

また、最初の段落:

足を少し引きずり気味に、偉ぶらず、やや猫背で登場するが、一度、指が鍵盤に触れるや、空気のように軽い金線細工のような響きが二時間のコンサートの間、途切れることなく紡ぎ出される、

というのは見事な描写。

辛辣ですが、全体に、若いとか、東洋人だということでの手加減なしに正面から批評の対象として取り上げているということかも知れません。

 

https://www.nytimes.com/2023/01/26/arts/music/review-mao-fujita-carnegie-debut.html?fbclid=IwAR37b6zYFaFsUOjiKeI_iir0E_wbDICFDBU8qM5E83thrBWTzGeJDOqrNS8

 

ヱヴァンゲリヲン(新劇場版)とワーグナー

ここのところ、俄か「エヴァンゲリオン」ファンとなっていたが、今日、ようやく新劇場版4部作を見終わった。

 

繰り返しになるが、俄かファンなので、この複雑なストーリーを理解できたわけでは全くないが、自分が子供だった頃のアニメ(オリジナル・ガンダム宇宙戦艦ヤマト)とは違い、苦闘の向こうにも何ら分かりやすい希望はないことが印象に残る。ここにもはっきり残るバブル崩壊による断層を見る。

 

他方、「スターウォーズ」もそうだったが、悪い癖で、こういう壮大な叙事詩的なストーリーに触れると、いつもワーグナー(とりわけ「ニーベルングの指環」)の影を感じてしまう。映画のオリジナルの劇中音楽の中にもかなりワーグナー的音響があるが、それ以上に象徴に満ちたストーリーがそう。

 

以下は新劇場版ストーリーに基づく、「エヴァ」と「指環」の私流の勝手な読み替え。特に「エヴァ」のファンの方からは、加持やアスカあたりについて大いに異論があることと思う。「指環」サイドから見ると、アルベリッヒやハーゲン等、ニーベルンゲン族がミーメ以外に出て来ないことが気になると思うが、それは「エヴァ」のもう一つの勢力、(アダム系統の)「使徒」サイドにはカヲルを除き、性格を与えられた「人物」が登場しないことによる。

 

(以下、読み替え)

碇ゲンドウとシンジの父子の葛藤 ⇔ 自らのプロットによる世界支配に固執し、破滅するヴォータンと、穢れを知らぬその嫡系ジークフリート

 

葛城ミサトとシンジの関係 ⇔ 保護者・被保護者関係と恋愛感情がまざった独特な人間関係はブリュンヒルデジークフリートの関係に似ている気がする。ちなみに、ミサト(ブリュンヒルデ)が、劇の大詰めで自己犠牲により世界を救う?ところも同じ。

 

綾波レイ(≒ 碇ユイ) ⇔ シンジのレイへの感情は結局は死別した母親の影への思慕?。劇中で繰り返し浮かぶユイのイメージは、ジークフリートの母で、薄幸だったジークリンデを想起させる。

他方で、ゲンドウ=ユイの関係にフォーカスするなら、ユイはヴォータンの知的活動の源泉でもあったエルダになぞられえるのが正着かもしれない。 

 

渚カヲル ⇔ ジークフリートにいろいろなことを教え、育て、竜退治に駆り出すが、目論見の外れるミーメに見えて仕方がない。

ただ、カヲルの方が劇中キャラとしての射程ははるかに大きいので、アルべリヒも兼ねてもらうのがよいかもしれない。美貌のカヲルを醜いニーベルング族に見立てるのは心苦しいが。

 

加持リョウジ ⇔ (新劇場版ストーリーによる)サードインパクトでの英雄的な最期と、その後のシンジの回想での現れ方は、ジークムントを想起させる。

ただし、こうすると、ジークリンデ=レイ(ユイ)とは符合しなくなるが。

また、加持=ジークムントとすると、ミサト=ジークリンデ、加持リョウジJr.=ジークフリートとする余地も出てはくるが、その読み替えにはそれ以上広がりがないのは明らか。

 

・アスカ ⇔ ジークフリートに真実を告げる小鳥。

 アスカのファンの方には申し訳ないが、新劇場版では、登場回数の割には、他のキャラとそこまで根源的な絡みがなかった印象。

 

 

 

上岡敏之指揮・新日本フィルのブルックナー交響曲第8番

上岡敏之さん・新日本フィルブルックナーの第8番を聴きに行った。コンサートマスターは上岡番の崔文洙氏。



墨田トリフォニーホールもほぼ満席。この曲一曲だけという硬派なプログラムにも関わらず、よくこれだけ埋まったねと。上岡音楽監督時代はあれこれと工夫を凝らした意欲的なプログラムをやっていたにお関わらず、トリフォニーホールも空席が目立つことが多く、残念に感じていたことが多かったので、よかった。演奏も期待を裏切らない充実したものだった。

 

第一楽章は随分ゆっくりと始まるが、冒頭主題がリズムの不気味さが強調されていて、聴き慣れてしまっている耳にも聞き流せない。それは、この後、何回かこの主題が出てくるたびに感じさせる。

 

その後は、楽想ごとにテンポを上げていく。最初の盛り上がりのところで既に金管の咆哮とティンパニの強打がすさまじい。これが新日本の音?崔氏率いる第一バイオリンがよく歌うのは変わらないが、コロナ前にブルックナーの第7番なんかをやっていた頃は全体的にパワーがそこまででは無く、やや元気がなかったように思うが、今日は、管も、弦(特にコントラバス)もパワフルで充実した響き。私はコロナで上岡氏が現れなくなってから新日本フィルをほとんど聞いていなかったので全く分からないが、この響きの充実は上岡効果というよりは、最近の楽団員の入れ替わりと、ひょっとすると佐渡裕氏の影響かもしれない。

 

ヴィオラは当初、特に弱奏のところはやや不揃いだったり、ニュアンスに欠けたりするところもあったが、曲が進むにつれて充実した良い音になっていった。ヴィオラのトップが随分とスリムで若い女性で、上岡さんはこの奏者が気になるのか、しきりにヴィオラの方に向かい、指揮台からトップ奏者の譜面台の真上くらいまで身を乗り出して、腕を激しく振って、もっともっと(強く)と催促する。指揮棒がトップの人の顔にあたらないかというくらい。しかし、こうやって強奏を求めた結果、第三楽章で普段はほとんど聞こえないヴィオラトレモロの音が浮かび上がって、調性的に非常な効果を上げていた瞬間もあった。

 

第一楽章の最後も金管ティンパニの強奏がすさまじく、この曲本来の巨大で悲劇的な姿を描いていた。

 

第二楽章は、主部は割と普通だったが、トリオに入るや、第一バイオリンが、速いテンポでありながら、思いっきり表情豊かに歌うという、典型的な上岡=崔氏ワールドの発現。

 

第三楽章は、冒頭、例のトリスタンの愛の二重奏と似た中低弦の刻み音型を、普通は神秘的雰囲気を狙って音量を絞る結果不明確になりがちなところ、かなり強めにしっかり弾かせることで、和声が鮮やかに浮かび上がって効果的だった。そのあと、第一バイオリンが入ってきて、一しきり盛り上がった後の全休符をうんと長くとり、その後、再度始まるとところを逆に物凄く音量を絞ってはじめることで、レンブラントの絵のような陰影を描くのに成功していたように思う。第三楽章あたりから、冒頭に述べた各パートの響きの充実が一層際立つようになる。最後のクライマックスのところも金管が咆哮しつつ、少しも割れた汚い音にならないあたり。25年以上前に、初めて欧米に渡り、ミュンヘンやシカゴのオーケストラでこの曲を聴いた時は、この部分での物理的なパワーは日本の楽団は到底かなわないなと思ったが、先のWBCではないが、かなり追いついてきたのではないかと思う。

 

第四楽章も基本同じことが当てはまる。最後の全ての楽章の主題が重なって壮大なクライマックスを築く部分も聴きごたえがあった。

 

最後、観客の惜しみない拍手の中、全パートを周って健闘を讃えるのはいつもの上岡流。そのあとも鳴りやまない拍手の中で出てきたときには、お辞儀をした後、崔氏の手を子供の様に引っ張って、「もう楽団員も引き上げようよ」というような感じで催促していたのがおかしかった。崔氏は1回目のときは無視してどんと腰かけたが、2回目のときはやむを得ずという感じで、引き揚げた。80分近い大曲の後で、上岡氏自身がくたびれていたからか、楽団員をいたわっていたのかは分からない。

 

もう一つ、営業的に面白いのは、新日フィルが同じ曲を4月に同じ会場で取り上げること。これも定期演奏会ではない特別演奏会で、桑田歩さんという同楽団の首席チェリストが「一曲入魂」と称して指揮をするという企画。まあ、今日のはどこまでいっても上岡流のブルックナーだったので、それとはまったく違う演奏になるのだと思うが。

藤田真央の演奏会(モーツァルト・ピアノ協奏曲21番、27番)

先週日曜日は、藤田真央を追っかけて、宇都宮まで、餃子も食べずに往復5時間強のところを行ってきました。

モーツァルトの21番、27番のコンチェルトと、40番のシンフォニー。

真央氏のピアノはそれを裏切らず素晴らしく、テレビやラジオで聴くのと同じまろやかで表情豊かな音。

21番はかなり表現意欲全開で、カデンツァも自作なのか19世紀のヴィルトゥオーゾあたりの作なのかは分かりませんが、長大でクリエイティブ。40番の交響曲の主題も織り交ぜたようなユニークなもの。ある意味やり放題。

他方で、27番は、死を目前にしたモーツァルトの清澄で諦観に満ちた楽曲に敬意を表してか、余計な装飾音はほとんど加えず、カデンツァも普通に弾かれているシンプルなものをそのまま弾いていました。それだけで涙が出るほど嬉しい。

残念なのがオーケストラ。一人一人技術的に大変上手なのは分かるのですが、弦も管も音量が常に大きすぎでピアノの音が聴こえなくなる場面もしばしば。音量の問題だけでなく、全体にマッチョな音楽性というか、ショルティのシカゴ響の室内楽版といって伝わるか分かりませんが、力まかせにゴリゴリ押してくる、ロシア人のレスリングみたいな音楽性が、真央氏やモーツァルトの音楽と深刻なミスマッチを起こしていたように思いました。

これは若くてイケメンの指揮者氏の責任も一部にはあるのかもしれませんが、FM放送で聴いた、指揮者抜きのコンミスの弾きぶりでの、真央氏とのモーツァルトの20番の協奏曲でも感じたことなので、アンサンブル金沢の性格なのだと思います。

バルトークとかやるならそれでいいと思うんですけどね。

昔は、マリナーのアカデミー室内管弦楽団とか、イギリス室内管弦楽団、パイヤール室内管弦楽団とか、小編成でも艶のある美しく、あまり極端なことをしない室内楽団がいたと思うのですが、真央氏がモーツァルトの協奏曲でCD等を作るときは、ぜひそういうグループと組んで録音して欲しいと思った次第。

真央氏は今週25日はカーネギ―ホールデビューか。体調だけ崩さなければ、心配いらないと思いますが、模様を知りたいです。

https://www.oek.jp/event/4636-2