フランツ・エンドラー著「カラヤンの生涯」

フランツ・エンドラーという人の執筆したカラヤンの伝記(「カラヤンの生涯」。ベネッセ社。1994年)を読んだ。
 
エンドラーというのは、既に亡くなったウィーンの音楽評論家。19世紀の有名なハンスリックの関わっていた雑誌の学芸部長も勤めており、ウィーン音楽評論界のローマ法王のような存在だったとでもいえばよいか。万事情報の少なかった1980年代に、エンドラーによるカラヤンへのインタビュー記事が日本の雑誌にも載っており、当時中高生だった自分も貪るように読んだ。晩年になり、いよいよ気難しく日々不機嫌になっていた巨匠を相手に、「録音未収録のマーラー交響曲1,2,3,7,8番)はもうやるつもりはないのですか」とか、「ベルリン・フィルの後継者は誰が望ましいと考えるか」等々、訊いて欲しいと思うことを次々と遠慮なく質問してくれているインタビューだった。
 
こうしたこともあったので、巨匠の死後数年してこのエンドラー氏によるカラヤンの伝記が出版され、日本語版が出たときは真っ先に購入した。著者が前書きで触れているように「最晩年の年月、彼(カラヤン)の宮廷に伺候を許された年代記編者として同行させてもらった」成果をまとめたものである。ただ、内容は意外にハードで専門的であったため20年余り放置していたが、最近手にしたところ、あっという間に引き込まれた。
 
この本は、巨匠の子供時代、修行時代のエピソードについては、特段新しい情報は提供していない。ウルム楽長時代に楽譜の読めない歌手に「薔薇の騎士」のオックス男爵のパートを手取り足取り教えたとか、トスカニーニ聴きたさにバイロイトまで自転車で駆け付けたとか、完全にはナチス政権の思う通りにならないフルトヴェングラーへの「当て馬」として彗星のようにベルリンに登場したとか、他の本でも既に伝えられている情報が多い。
 
この本の白眉は、むしろ、オペラ製作、レコード映像製作、そして春と夏のザルツブルクでの音楽祭という音楽イベントのあり方という3つの分野で、このザルツブルク出身の巨匠が世界を不可逆的に変えてしまったことについての分析と記述にあると思う。
 
オペラ製作について言えば、それまで、オペラというものは、イタリアものであれフランスものであれ、ウィーンでは、ウィーンの歌手たちによって、ウィーンの聴衆に分かる言葉(つまりドイツ語)で演じられる、ある意味、ローカルに味付けされて構わないものであった。カラヤンはそれを根底から覆したということである。言ってみれば東京の老舗洋食店で出しているナポリタン・スパゲティは本当のイタリア料理ではないとして、イタリア料理なら本場のイタリア人シェフを連れてきて本場そのものの料理を出すこととさせたというようなことである。
 
 
たとえば、「薔薇の騎士」、「椿姫」であるとすると、カラヤンの理解は、それぞれのオペラのキャストとして、この瞬間に地球上に最もふさわしい歌手がというのが存在し、それらの歌手を集め、演出等についてもベストなものを製作すべきということになる。ただ、場所も重要であり、「薔薇」ならウィーン国立歌劇場、「椿姫」ならミラノのスカラ座がよいということになる。あとは、ウィーンの「薔薇」をミラノやニューヨークへ、ミラノの「椿姫」を他の場所に持って言って、同じキャストで世界最高水準の公演を世界の聴衆に届ける。彼は、オペラの上演についてそういう新たな定義を与えただけでなく、自身が権力を握っていたウィーン、ミラノ、ザルツブルクでまさにそれを実現しようとしたわけである。
 
もちろん常に最高水準の上演が続いたわけでもなく、彼がこれら3都市とベルリンを支配した「欧州の音楽監督」だった時代は数年間で終わるが、たとえば、ウィーンにおいても、ヴェルディプッチーニについて国際水準の歌手を経験した聴衆たちは、こうした作品についてはウィーンアンサンブルによるドイツ語上演では永久に満足できなくなった。不可逆的な変化が起きたのである。
 
脱線するが、この話を読んで思い出したのが、我が国の新国立劇場である。初台の劇場は、専属のオーケストラや合唱団等がおらず、設立当初は、「オペラとしての水準がこれでは上がって行かない」という批判があり、自分も、「ウィーンならオケも合唱団も専属のものがいて、歌手もかつてのウィーンアンサンブルのような常連の人達がいて、彼らの切磋琢磨が上演の質を保証している」というように漠然と思っていた。ところが、15年ほど前にベルリンの大使館に勤務していたときに、ベルリンの国立歌劇場の財政基盤について関心を持ち、インテンダント(劇場総監督)に話を聴きに行ったところ、クワンダー総監督は、「日本の新国立劇場のスタイルを羨んでいる。本来、公演ごとに歌手からオケからダンサーまでベストの布陣を揃えるのが理想。ベルリンでは、楽器奏者も合唱団員もダンサーも隅から隅まで常勤職員で首にもできない。これでは芸術的水準は上げられない」と、ニコリともせず語った。
 
レベルは新国立や当時のベルリン国立歌劇場とは違うにせよ、この発想はカラヤンも同じであり、ただ、ウィーンやミラノでは、歌手と演出さえベストの布陣を呼びさえすれば、オケや合唱団員までは入れ替えの必要性を感じなかっただけと思われる。彼はウィーンでのポストを失うと、今度はザルツブルクで理想のオペラ製作を目指し、そのときには、歌手だけでなく、オケ(ベルリン・フィル)、合唱団(ウィーン楽友教会合唱団)とも、音楽祭の公演のためだけに呼んで、上演を行うということを始める。
 
そうして始まったザルツブルク復活祭音楽祭という事業も、20世紀のオペラ興行を変える革新的出来事だった。それについても本書の記述は興味深い。