フルトヴェングラー・ローマ放送響「神々の黄昏」(1953年)

本年2周目の「ニーベルングの指環」(フルトヴェングラー・ローマ放送響)を聴き終えた。

今日は、「神々の黄昏」の第3幕の後半、非業の死を遂げたジークフリートの遺体がギービッヒ家の屋敷に戻ってきた後の場面。

ジークフリートの死をめぐって生じるギービッヒ家の人達の嘆き、責任の押し付け合い、指輪という遺産をめぐる争い、兄弟の殺し合いへと展開する一連の悲劇は、若い頃は、その後の崇高な「ブリュンヒルデの自己犠牲」に向けたシークエンスという以上の価値は見出さなかったが、歳をとったせいか、何か都合が悪いことが起きたときの人間の性(さが)を象徴的に実によく描いていて秀逸と思う。会社であれ何であれ、一度、傾き始めると、負の連鎖というものが続きがち。その意味で、実に人間的な場面だと思う。

また、非嫡出子のハーゲンが当主グンターを打ち殺して、ジークフリートの遺体から「指輪」を抜き取ろうとした瞬間に、死んだジークフリートの腕がそれを拒否して持ち上がり、「指輪」のライトモチーフが響き渡る瞬間というのは、この14時間を超える劇でも屈指の名場面。

ここを境に、欲望にまみれた「俗」から、「聖」の世界に音楽も場面も見事に転換する。妙な話だが、この部分からは、年末の「紅白歌合戦」が終わり、荘厳な鐘の後が響いて、静かな「ゆく年くる年」に切り替わる場面を思い出す。

今回、フルトヴェングラー・ローマ放送響の録音を聴きとおして、全体として、どちらが好きと言われればやはりスカラ座とのライブの方が上回るが、それでも、部分的にはこちらの方がよい部分(たとえば、ジークフリートの葬送行進曲)もあり、作品自体の奥行の深さを改めて実感する。

ニーベルングの指環」3周目は、ショルティウィーンフィルのセットを聴いてみようと思う。そして、昔から「オーディオ的には優れているが、音楽的には時には良いと感じたり、ちょっとどうなのかと感じたり」というアンビバレントな気持ちを持ち続けてきたこのセットについて、そろそろ、自分なりの結論が出せないかというところ。