コロナで暗いニュースが多い。クラシックの演奏会も、在外の指揮者・
ソリストが来日できず中止・変更に追い込まれているものが多い。
ただ、よく見ると、そうした変更となった演奏会で、コバケン等の大御所に加えて、日本人の若手
演奏家に活躍の機会が増えている気がする。
クラシック音楽の世界は極端に競争が厳しくて、表舞台への新規参入は難しいようなので、コロナ下で数少ない良いことだと思う。
夏にネット中継で聴いた太田玄さん指揮の新日フィルの演奏会もそうだったが、昨晩の
N響演奏会もその好例。指揮の熊倉優、ピアノ独奏の藤田真央(男性)はともに20代。FM放送の録音で聴いただけだが素晴らしい。
冒頭の
メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」は、R.
シュトラウスや
マーラーのどぎつい
サウンドに馴れてしまった耳には正直退屈で普段はほとんど聴かない音楽だが、びっくりするくらい繊細な絵が目の前に広がるような演奏で、改めて曲の素晴らしさを感じた。
そして
シューマンのピアノ協奏曲。冒頭から速めのテンポで流れていく。ピリオド演奏の影響を受けた、淡麗薄味の今風の演奏だが、それが完全にそういうものとして消化されていて嫌味が無い。
考えてみれば、熊倉さんとか藤田さんの世代になると、物心ついた頃から
シューマンや
メンデルスゾーンはこういう流儀で演奏されるのが当たり前だったのでそのせいなのかもしれないが、その時代の流行に加えて、こういう身振りがあまり大きくなく、繊細さで勝負する演奏スタイルの方が、日本人の体質にはあっているのかもしれないといったことすら思う。ジャンルは違うが、米津玄師の曲なんかとも似た感性を感じる。
藤田さんはピアノもテクニックも音も素晴らしいし、
N響もヤルヴィの下で鍛えた淡麗薄味で透明な響きをこれ見よがしに展開する。
シューマンの協奏曲でも
木管の細かなフレーズまで実に見通し聴こえて、野菜などの具がすべてよく見える透明なスープのような音楽。往年の
フルトヴェングラー・
ギーゼキングのレコードなんかだと、楽器の響きが一つに混じりあってドロッと暗く思い響きになっていて、言ってみれば、グラーシュ・スープ(
ハンガリー風の
ビーフシチュー)のよう。かつてはそれが
シューマンの響きだと理解していたわけだが、それとはまるで別の魅力的な
オルタナティブがあるということ。
演奏会後半はバッハ・レーガーの「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」。これは、あまりどうこう、いじくりようもない音楽だが、そもそもこういう選曲が面白いと思う。
この後の
メンデルスゾーンの「イタリア」も基本はフィンガルや
シューマンと同じ路線。あの快速な曲の一番冒頭も、
トスカニーニや
シノーポリがやったときのように、真夏のイタリアの強烈な日差しが差してくるという感じではなく、ちょうど今日の東京のように、爽やかな日差しが差しているといった感じ。たまたまではなくて、冒頭のフィンガルの洞窟と繊細さで一貫している。
これを欧州の人が聴いた場合に、単に
コントラストが弱いと思うのか、日本人シェフのフランス料理のように繊細さを評価してくれるのか、知りたい。