上岡敏之・新日本フィル ブルックナー第九


昨年秋に行われた上岡敏之・新日フィルのブルックナーの第九交響曲の演奏会のライブCDが出ている。

二度行われた演奏会のうち、横浜みなとみらいホールの方には出かけたが、素晴らしく感動的な第三楽章と、どこかピンと来ない第一楽章とで、少し微妙な印象だったので、CDで改めて確認をした。

やはり聴きものは第三楽章のアダージョ。冒頭のG弦に載せたヴァイオリンの跳躍とかすかで絶妙なポルタメント。その後の「生との訣別」と呼ばれる荘厳な金管のコラール(私はいつもここでドイツの暗い晩秋の空を思い出す)、その後の慰藉に満ち溢れた変イ長調の第二主題までの流れから、憑りつかれてしまう。絶品。

一般に、欧州で名演とされるヴァントやカラヤンのこの曲の演奏では、各楽器のピッチが完璧に合って、ピアニッシモの部分ではかすかなキーンという響き、フォルテッシッモの部分では耳を劈く大オルガンのような荘厳で威嚇的な響きに満ちているが、それに比べると、上岡さんと新日フィルの響きは全く違う。もちろんベルリンフィルその他の欧州の楽団との合奏力の違いもあるとは思うが、技術の問題というより、感性の問題として、もう少し湿って柔らかい響きを追求した結果のように思う。結果として、ヴァントやカラヤンのようにケルンの大聖堂のような硬く、尖がった響きではなく、我が国の古い古民家に足を踏み入れたときのような少し湿り気を含んだ丸い響きになっている。

実演で違和感のあった第一楽章も、何度か聴き直してみると、こういう第三楽章の演奏と同じポリシーによるものだと分かる。曲が始まって最初の頂点を築くレのオクターブ跳躍からなる主題も、普通はマルカート風というか、一音一音区切って、鋭く提示するのが普通で、少なくとも手元のノヴァーク版のスコアでもそうなっているが、上岡さんはレガートでなめらかにやる。最初聴いたときは奇妙に聴こえたが、全曲が鋭さではなく、柔らかさで統一された演奏ということだと分かれば、見方も変わってくる。ひょっとすると、演奏で使われたという「ハース・オーレル版」の指定なのかもしれないが。もっとも、少なくとも通常の「ハース版」によっているヴァントその他の演奏ではこんなレガートではやっていない。

同じ日本のオーケストラのCDでも、先般のインバル・都響マーラーなどは、欧米の伝統的なスタンダードに沿いつつ技術的に極めて高い水準のものなので、欧米の好楽家に先入観なしに聴いてもらえれば広く受け入れられると思うが、この上岡・新日フィルのブルックナーはユニーク過ぎて難しいかもしれない。

ただ、日本人の指揮者と楽団が集まって、ドイツ人・オーストリア人と全く同じようなブルックナーをやることにどこまで意味があるのかどうか。むしろ、日本人的な湿り気をともなった優しさに満ちたブルックナーというものが、いつの日か、そういうものとして、欧米でも評価を受ける日が来ないかと思う。

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