バレンボイムのベートーヴェン演奏への評価 2017 年秋のFinancial Times紙での論争

いささか旧聞に属するが、ベートーヴェン・イヤーで、バレンボイムがピアノ・ソナタの演奏会を各地でツアーしていることもあるので。2017年の秋のバレンボイムの75歳記念演奏会への評価をめぐって、英経済紙Financial Timesでちょっとした論争があった。
 
きっかけは、バレンボイムの75歳記念コンサート(メーターが共演)でのベートーヴェンのピアノ協奏曲の第五番のレビュー記事(2017年11月17日の文化芸術欄)。
私は、日頃から、ベートーヴェンを大編成のオーケストラの分厚い響きで演奏することは、バレンボイムくらいのビックネームでない限り「アナクロニズム」と批判される惧れがあったりしてなかなか難しいのだろうと思っていたが、このコンサートレビューでは、バレンボイムに対して正面から「時代遅れ」と言う評価と等しいことが書かれている。
― 冒頭の和音からして、このベートーヴェンは過去の祝祭であることが明らかだった。(From the opening chord, it was clear that this Beethoven was a celebration of the past.)
― このクラスのアーティストの場合、人々は本当に演奏を聴いているのか。それともかつての栄光の思い出を聴いているのか。(With artists of this stature, do people actually hear the performance? Are they listening to memories of former glory? )
― バレンボイムには自分が思うがままベートーヴェンを演奏するのも許されよう。しかし、ひょっとすると、もう潮時かもしれない(he is entitled to play Beethoven however he likes. But perhaps it is time to move on.)
と散々な書かれっぷり。
 
英国は、ホグウットやガーディナーらの出身地でもあり、ピリオド様式演奏(注:作曲者の時代(ピリオド)の編成・楽器・奏法を追求した演奏スタイル)の「伝統」があるので、非ピリオド様式のバレンボイム=メータに対して厳しくなるのは分からなくはないのだが。
 
その後の読者の投稿でもバレンボイムベートーヴェン演奏への評価をめぐって、賛否両論の議論が行われた。
 
面白いのは、ここでやり玉に挙がっている二人(バレンボイムとメータ)が、アルゼンチンとインドという、クラシック音楽の中心地・欧州からみると「辺境」の出身であること。
 
柳田國男の「方言周圏論」ではないが、かつての京都の「都言葉」が東北や九州に残っていたように、かつての欧州の伝統的なベートーヴェンの演奏様式に、非欧州出身の演奏家である二人が強い愛着を持っているということかもしれない(ほぼ同世代の音楽家でも、イタリア・ミラノという「中心地」出身のアバドやシャイーは、べーレンライター版やピリオド演奏といった「トレンド」に敏感に反応しているのは興味深い)。
 
極東の一ファンである自分自身のフルトヴェングラーワルターの「かつての栄光の思い出」たる演奏様式への愛着も案外このあたりに理由があるのかもしれない。