クラウディオ・アバドは、20世紀の最後の四半世紀から現在までで最も優れた指揮者であることにあまり異論もないと思うし、モーツアルト、ベートーベンからブラームス、マーラー、新ウィーン学派に至るまでのドイツ語圏の音楽、ロッシーニやヴェルディのようなイタリアオペラ、チャイコフスキー等のロシア音楽等、ほとんど死角のない広範なレパートリーについていずれも高い水準の演奏を実現しているという意味で、総合力ではカラヤン以降で最大の存在であることもほぼ衆目一致のことではないかと思われる。
ただ、各種録音でも、ほぼ常にきわめて高い水準の成果を上げている一方で、その温厚そうな容貌も相まって、昔でいえばフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、最近ではクライバーのような、その演奏で何が起きるか分からない、気まぐれな天才といった感じとは少し違って、安定感はあるが、突き抜けることもない、どこか優等生的なイメージがあったと思う。
他方で、本当に調子が出たときのアバドは、舞台の袖から出てきたときから目が異様に光っていて、何かに憑かれたようにとてつもない演奏をするという話をかなり昔にどこかで聞いた。
改めてそういう観点から見ると、確かに、そういう姿を彷彿とさせる録音もある。その一つがアバドの最初の「復活」であるシカゴとの録音である。
「復活」も、一昔前の「運命」とか「未完成」なみに、しょっちゅう演奏される演目になってしまって、第一楽章の弦の強烈な出だしにも慣れきってしまった感じもあるが、この録音は、まだこの曲も珍しかった70年代のものであるせいか、第一楽章の出だしもかなりピリピリしたものとなっている。
その後、長い曲なので、いちいち指摘していては切りがないが、
・合唱が2回目にフォルテッシモで叫ぶ部分(Bereite dich!)(合唱団のうちの何人かが、緊張に堪え切れず、一瞬早く出ている部分)
など、スタジオ録音とは思えない、ライブのような緊張感にあふれた部分が何か所もある。
後者などが典型であるが、演奏者が何かに突き動かされるようにして音楽をしている感じというのは、そうそういつも聴けるものではない。こういうときに、アバドの目はきっと異様に光っていたのではないかと勝手に思うのである。
アバドのことばかり書いたが、シカゴ交響楽団も、荒削りで、野性的な音をバリバリ出して、個性的である。有名な金管はもちろんだが、弦楽器も何となく金属的というか、剛性が高いというか、何とも独特の音色である。ちょうどショルティのマーラーの6番とか8番とかと同じ音である。70年代くらいまでのショルティ・シカゴの録音はいつもこういう荒々しい音がするが、これは、いわゆるデッカ・サウンドというか、レコード会社の録音の特性によるものと思っていたが、アバドのはドイチェ・グラモフォンの録音なので、これは録音技術等によるものではなくて、当時のシカゴ響は、本当にこういう荒々しい音を出していたということがよくわかる。