九州大学オケ・上原彩子さん

<2018年8月の書き込み(備忘)>

今日は親父と一緒に彼の母校の九州大学のオーケストラの東京公演へ。気鋭の指揮者鈴木優人氏に、チャイコフスキーのピアノ協奏曲のソロが上原彩子さんで、サントリーホールという学生オケとしては超豪華な舞台。

何よりみんな本当に若くて、特に弦楽器なんか弓をこれでもかというくらい一生懸命こすりつけて弾いていて、それがそのままキュンキュンと一つ一つ音になって飛んでくる感じ。考えてみれば、医学部や院生以外は職場の一年生よりも年下なので若いに決まっているのですが、音まで一生懸命で若さに溢れていました。

ピアノの上原さんは実演では初めて聴きましたが、凄いテクニックはもちろんですが、弾いている間もずっと顔を真左に向けて、指揮というより団員の顔を見ながら弾いているのが印象的でした。チャイコでしきりと活躍するフルート奏者などを見るならわかるのですが、真後ろにいる第一ヴァイオリンまで身体を捻って一人で一人の顔を覗き込むようにして、弾いておられました。演奏も、ソロの部分は豪腕を唸らすかの如くブァーっと弾いたりするのですが、オケの楽器との受け渡しがある部分では相手が受け止められるように優しくパスをするように受け渡しされていて、まるで室内楽のようでした。去年の秋に同じ曲をブニアティシビリが弾いた時なんかは、霊感赴くまま天馬空を行くピアノに、上岡さんの新日フィルが神業のような伴奏を付けていくと行った感じでしたが、その正反対の、一緒に作り上げていく「協奏曲」という感じ。

メインは新世界交響曲。この曲は有名な第2楽章がアマチュアには意外に鬼門で、あまり気持ちを込めて、冒頭の金管のコラールをゆっくりかつ荘厳にやると、その後の家路のメロディーのイングリッシュホルンのソロの出が緊張し過ぎて、その後の他の楽器による展開もいつもの実力を発揮できていないんだろうなと言った展開になりがちな箇所。

今日は、鈴木さんは、第一楽章からアタッカで休みなく第二楽章に突入。それも、一見かなり素っ気なく速く、強めの音で始めたので、おそらくイングリッシュホルンのソロの人も緊張する間もなくあのメロディーに突入と言った感じで、最大の難所を見事突破という感じ。ひょっとしたら最先端の研究に基づく演奏スタイルなのかも知れませんが、鈴木さんの若い学生さんたちへの優しい配慮のような気がしました。

鈴木さんは九州とは特段縁は無かったようですが、プレトークも含め、非常に良い感じで溶け込んでいる様子。新日フィルも時々振られることがあるので次回は聴いてみようかなと。

新世界の後に九州大学祝典序曲なる曲が奏され、校歌や地元の民謡などが入っていたらしく、親父が大いに反応していました。

ともあれ若い団員の皆さんの爽やかなエネルギーを感じ、老練で底力のあるプロのオケとは違ったよさがありました。

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バーンスタイン生誕100年ウィーク

<2018年8月のバーンスタインの生誕100年ウイークの書き込み(備忘)。>

この人は、宇宙の天体がその最期に大爆発を起こして巨大な光を放つが如く、晩年の80年代後半に奇跡のような名演を繰り広げていた。

何度も書いたが、はるか極東でラジオ放送とレコードでそれを追いかけていた自分にとって、彼は、憧れの矢、絶対的なイコンのような存在だった。

安易に流れがちな10代の日々に、眩しいばかりに輝きを放つ彼の演奏に触れることで、世の中にはこんなに高く尊いものが存在するということを教えられ、毎日を惰性に流されるのではなく、自分なりの持ち場で、少しでも懸命に生きるようにと導かれていたとすら思う。

バーンスタインの演奏の魅力の一つは、常識に囚われず、時として異端に近いユニークな表現をも恐れないところにあると思う。この新世界交響曲がその一例。第二楽章のラルゴが極限まで遅い。家路の音楽と言うより、黄泉の国を覗き込むというか、そう、ほとんど、あのマーラーの9番の終楽章のような音楽になっている。

万人向けとも、ドボルザークの本質を突いているとも全く思わないが、自分の所信を少しも曲げない姿勢が一番の魅力のように思う。

https://www.youtube.com/watch?v=pHB56_-JOoY&fbclid=IwAR1Zxi3tlgE82jYxPBFlDOObC8IOxP3oEzbzEbhBU7g-IqoxnB7Q7envx9I&app=desktop

 

2018年9月の新日本フィル・コンサート(R.シュトラウス・プログラム)

<2018年9月の書き込み(備忘)>

上岡さんのオールR.シュトラウス・ブロ。シーズン冒頭にこのプログラムというのが、ミュンヘン・フィルやバンベルク交響楽団のようで、嬉しくなる。

R.シュトラウスは、政治学者の丸山真男氏の音楽評論の影響なのか、マーラーに比べても我が国では不当に評価が低いが、豊かな音楽体験を追求する観点からは改めた方がよいと思う。

 

 

 

新日本フィルハーモニー交響楽団 New Japan Philharmonic, orchestra

本日のリハーサルより。
首席オーボエ奏者・古部をソリストにコンチェルト!
本公演で取り上げる4曲のオール・R.シュトラウス・プログラムのうち、3つの交響詩は20-30代の作品で、色彩鮮やか、気概に満ちた作品ですが、オーボエ協奏曲だけは晩年の作品。みずみずしくロマンティックな音色を古部が歌い上げます!
どうぞお楽しみに!

 

バーンスタイン生誕100周年  (ららら・クラシック)

NHKららら・クラシックでバーンスタインを特集した放送の録画を観た。30分の枠番組で生誕100周年というと、どうしても礼賛一辺倒になってしまうのは仕方がないとして、幾つか珠玉のエピソードもあった。

一つはN響音楽監督パーヴォ・ヤルヴィの語ったロスでのマスターコースでの経験。ヤルヴィに指揮の指導をしていたバーンスタインは出発予定時間を過ぎてもやめようとしない。堪り兼ねたスタッフが「Stop teaching, Lenny. We need to leave now!」とか声をかけたところ、バーンスタインは「I’m not teaching. I’m changing the life.」と。映画のセリフみたいだが、こんなのは格好だけで出てくるセリフではないのではないか。一期一会かもしれないが、明らかに未来に開花する才能を持っている若者(ヤルヴィ)を目の前にして、本気で大事なことを伝えようとしていたのだろう。

しかし、単に若者に優しかっただけでもない。指揮者の広上純一氏がアムステルダムで1月間アシスタントをしていたときは、「さぁやろうか」とスタジオに入って、マーラーの4番の交響曲をいきなりピアノで弾けと。指揮者としての譜読みができているかを試しているのだが、誰もがバーンスタインみたいにピアノが得意なわけでもないし、予告なしに言われても厳しい。広上氏が緊張もあって、しどろもどろでやっていると、「こうだ」といって、吸っていた煙草を右手の指に挟みながら自分でピアノで弾き始めて、それが素晴らしくて、広上氏は「指揮者というのはここまでできないといけないのか」と打ちのめされたらしい。おそらく、あの最後のマーラー全集中の4番をコンセルトヘボーのオケと録音した頃のことだろうか。広上さんは大変正直な人で「心身ともに非常につらくて死にそうな一か月だった」というような趣旨のことを語っていた。

あの90年夏のPMFでのシューマン2番のリハーサルシーンも出てきた。当時放送で見ていて、一緒に観ていた母親(音楽のことはあまり分からない)が、「この人はなにか異常に焦っている気がする」と感想を漏らした。当時は巨匠が不治の病に侵されているとは知らなかったが、今こうして見ると、余命を悟って若者たちに自分の知りえた全てを伝えたいという焦りがまざまざと伝わってくる。

実は、あの年のPMFの後、バーンスタインは東京でロンドン交響楽団との幾つか演奏会を予定していて、自分はブルックナーの9番をやる日のチケットを取っていた。初めて巨匠の雄姿をライブで、それもブルックナーの最高傑作で拝めるということで楽しみにしていたが、体調不良でキャンセルとなった。なぜか淡々と受け入れられた。当時はその直後に亡くなるとまでは思っていなかったが、また次の機会があると思っていたわけでもない。ただ、「あの人が公演をキャンセルして帰国するというのはよくよくのことで、それに文句を言っちゃいけないだろう」という気持ちだったと思う。

今でも残念といえば残念ではあるが、バーンスタインからは、この縁なき衆生の自分も既に数多くのものを与えられ、(残っている演奏記録を通じて)未だに与えられ続けていることに感謝こそすれ、これ以上欲張るのはなんだかという気分に比較的近いと思う。

https://www.nhk.or.jp/lalala/archive.html?fbclid=IwAR0hkPL-w7dJKEy7ctiVVzhM_1P8vLtGtTAj8ACjYulY0pxAciRfN6YRQMg

ギュンター・ヴァント N響

N響ザ・レジェンドでやっていた1979年のヴァントのN響公演。以前から聴いたことのあるブルックナーに加えて、ベートーヴェンのレオノーレ3番をやっていたが、これが凄かった。

冒頭の一音から凄く衝撃的な音がするが、放送で紹介されたエピソードによれば、リハーサルでは、N響は、この冒頭の一音を出すや否や停められて、各パートそれぞれたくさんのお小言をくらって、徹底的に鍛え直されたという。

Sauberkeit(清潔さ)への信仰というか、ドイツ人というのは異様に几帳面で潔癖なところがあって、ステンレスのキッチンを鏡のようにピカピカに磨き上げたり、シーツを熱いお湯で煮立てるように洗濯して真っ白にしたり、魚料理のレストランに行くとカップルでも殆ど無言で骨を取るのに熱中して文字通り骨しか残さず綺麗に食べたり、一度「清潔さ」がテーマになると、徹底的にこだわるところがあると思う。

それと同じ精神に基づいているというと茶化しているみたいだが、おそらくメンバーは学生時代から散々やっているであろうこの曲を、ヴァントを指揮台に呼んでしまったがために、みんなガチガチに緊張して必死で「清潔に」演奏している様が、40年近く前の録音でもヒシヒシと伝わってくるのが凄い。

N響には来なかったが、カール・ベームもこのスタイルの巨匠だったのだろうと思う。

でも、普通の職場でもこういう上司の方、時々いますよね。(もちろん、ヴァントと同様、素晴らしい成果を上げていることが多いと思いますが(汗))。

https://www2.nhk.or.jp/archives/chronicle/pg/page010-01-01.cgi?hensCode=000046950112901000193

前橋汀子とココシュカ

最近バッハの2回目の無伴奏全曲アルバムを出したバイオリニストの前橋さんの日経私の履歴書から。稔り多くも過酷だったソ連留学時代の話も興味深かったが、今日は、なんと晩年のココシュカが登場。亡くなる前のアルマ-マーラーから「今でもあなたを愛している」という電報が来たとなぜか初対面の若い東洋人に語り、返す刀で「君を描きたい」と言い出すあたり、短いエピソードながら、この愛に病んだ怪人画家の容貌をリアルに伝えていて面白い。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO36859250U8A021C1BC8000/?fbclid=IwAR39EONCekD3rCzezWLrkqStLvjAblr_0nepNG9Q9z7R-0X_XNl3GVodKlM

インバル・フランクフルト放送響  ブルックナー第九番 第四楽章

ブルックナーの第九交響曲の未完の四楽章を学者が補筆した録音を聴く。80年代にインバルがフランクフルト放送のオーケストラと録音したもの。

確かに構成、話声、オーケストレーションともブルックナーのスタイルでよく出来ているとは思うが、作曲者が完成した八番のフイナーレと比べると、本物のトラと張り子のトラくらい違うというのは、関係者には酷な言い方かもしれない。

テデウムは音楽の水準としてはバイエルン国王に捧げられた第七交響曲と同程度で、ブルックナーの音楽は、その後、ハプスブルク皇帝に捧げられた第八番、神に捧げる予定だった第九で献呈相手のレベルに合わせるかのように指数関数的に高みに達するので、第九のフィナーレの代替がテデウムではやや役不足であるのは事実。それでも空白を埋めるには本人が完成させた音楽の方がベターかと思う。