別のビデオですが、正確さに厳しかったヴァントは、なんと、手兵のNDR響相手に小学生でも相手にしているように、1,2,3と3拍も予拍を振って入っています。これなら絶対に間違えずに入れます。真のプロは格好つけずに、成果実現だけに集中することの好例ですね。
ベートーヴェン 第五交響曲 冒頭 指揮者聴き比べ
ひょっとすると、ビデオと音声が編集のどこかの段階でずれているのかもしれないので、それは割り引いて考える必要があるが。
1.分かりやすかった指揮者
次にチョンミュンフン。今回、唯一、予拍(楽譜にない空振りの小節の振り)がなく、ダイレクトに入るが、リハで事前に知らさせていれば、これも間違えずに入れると思う。かつ格好がいい。
イギリスの俊英ハーディングもその次くらいに分かりやすい。
ジュリーニ・ウィーンフィル ブルックナー交響曲第8番(ライブ)
ジュリーニの全盛期の指揮姿は、長い腕の先から炎が出ているようだったとどこかで聞いた。この部分ではそれを彷彿とさせる。自分が90年代半ばに彼を生で聴いたときは、そうしたエネルギーは残念ながら全く感じることはなかったが。
バーンスタイン・ウィーンフィル モーツァルト交響曲第39番
80年代のバーンスタインの録音は大抵聴いているが、モーツァルトの39番は、80年代半ばに自分としての絶対的なベスト盤(ブルーノ・ワルターとニューヨークフィル)と出会って以来、ほとんど他の演奏に目が行かなかったため、未聴だった。
amazon primeやspotifyにあるので今回聴いてみたが、第二楽章がユニーク。冒頭のヴァイオリンの「ミーファーソラーファミ」の後、「ラーソ、シーラ、ドーシ、レード、ミ、ミ、ミ―(下の)ミ」と高い音程によじ登って行って、最後「ミ」で降りてくるところで、ため息のように、自然にテンポを緩めている部分から耳を奪われる。
大げさにやると物凄く下品になるので、ほとんど気づくかどうか分からないくらいな感じで。この4小節のフレーズは、この楽章で何度となく繰り返されるが、そのたびにこの微妙なテンポの揺らぎが繰り返される。
その後、短調のフォルテに転じた部分も、今よりも人数の多い編成で弾かせて、豊かな低音が素晴らしい。
モーツァルトというのは、その時代までに存在したあらゆる作曲技法上の可能性を極めつくした結果、同時代には芸術面での理解者は誰もいなくなった中、なおも、文字通り死の日までより高みを目指して闘いを続け、疲れ果てて死んでいった人だと思う。
晩年の手紙を読んでいると、家族への他愛もない連絡や借金の申し込みの中に、そういう前人未踏の境地に達してしまった人間の孤独を感じる部分があるが、この39番のアンダンテでも同じ訴えをしていたのだなと気づく。
ついでに言えば、カップリングになっている40番の第一楽章も、何とも優美で絶品。ジャケットの写真も、初めて販売されたときのものだが、不遇な若い天才作曲家へのtributeとして魅力的だと思う。
晩年のモーツァルトの音楽
庄司紗矢香・オラフソン リサイタル(2020年12月13日)
6年ぶりに庄司紗矢香のヴァイオリンリサイタル、行きました。
日本到着後の検疫期間を経てのリサイタルだったそうですが、プログラムには本人が簡潔ながら作品への思いと静かな自信に満ちたメッセージ。
これまではメータやテミルカーノフ、プレスラーと言った上の世代の巨匠の薫陶を受けてきた印象が強いが、同世代の、それもスーパースター街道をひた走っているオラフソンと組んで日本まで凱旋するのだから凄いと思う。
今日のプログラムでは本人が今回のプログラムの最初にあったというバルトークのソナタが圧巻。
オラフソン。いつも神経質で不機嫌な顔でジャケットに映っていたのでそういう人かと思っていたが、毎回、庄司の楽譜を持ってきてヒョヒョッと譜面台に置いてあげたり、アンコールでは結構ノリノリで喋っていたりと、ゲルマン系の男性によくいる「第一印象は強面だけど、単に人見知りしているだけで、打ち解けると超いい奴」の典型のようなキャラとお見受けした。
さすがに音楽的には、バッハやブラームスを中心にかなり自分のペースを押し出している感じで、単なる伴奏には収まる感じではなかったが。
みなとみらいの大ホールでも物足りなさを感じない音楽のエネルギーがありました。
チェリビダッケ・ミュンヘンフィル ベートーヴェン交響曲第三番(1996年)
留学時代に聴いた懐かしのコンサートの音源を発見。
当時は、第一楽章のリピート無しでほぼ1時間かかる異常な遅さもさることながら、何か天国的な異様までの清澄さを感じた。チェリビダッケは確かに高齢だったが、この時点で数カ月後に亡くなるとは思っていなかったので、予感があってそう感じた訳ではないのだが。
今回、この録音を聴くとそういうものは特に感じない。録音がベストではなくて少しヒリヒリした響きもあるけれど、弦・管とも音程が異常に正確で、そのせいで演奏会場では澄み切った印象を受けたのかもしれない。