ベートーヴェン第五交響曲冒頭 聴き比べ番外編 ヴァント・NDR響

別のビデオですが、正確さに厳しかったヴァントは、なんと、手兵のNDR響相手に小学生でも相手にしているように、1,2,3と3拍も予拍を振って入っています。これなら絶対に間違えずに入れます。真のプロは格好つけずに、成果実現だけに集中することの好例ですね。

https://www.youtube.com/watch?v=de7QndXj5is

ベートーヴェン 第五交響曲 冒頭 指揮者聴き比べ

有名なベートーヴェンの運命の出だしは、意外に入りずらく、とても難しい(アマオケだと結構ずれる)。
Youtube古今東西の名指揮者の冒頭部分の指揮ぶりを編集してくれた人がいたので、眺めていた感想。
ひょっとすると、ビデオと音声が編集のどこかの段階でずれているのかもしれないので、それは割り引いて考える必要があるが。
1.分かりやすかった指揮者
まず自分的には圧倒的に小澤征爾。これなら絶対に間違えずに入れる(と思う)。その後も、異常に肌理の細かい動きで、指揮の動作と視線だけで完全にオケをコントロールしてくる感じは圧巻。
次にチョンミュンフン。今回、唯一、予拍(楽譜にない空振りの小節の振り)がなく、ダイレクトに入るが、リハで事前に知らさせていれば、これも間違えずに入れると思う。かつ格好がいい。
イギリスの俊英ハーディングもその次くらいに分かりやすい。
2.その次に分かりやすかった指揮者
上記3名ほどではないが、カラヤントスカニーニは事前にリハで見ていれば、大丈夫だと思う。
3.分かりにくかった指揮者
意外なことにショルティ。入りが分かりにくい上に、音楽が始まった直後に、猫みたいに急にパッと横に飛ぶので焦る。それでミスを誘発されそう。
バーンスタインは2回分入っているが、2回目は、予拍を降り始める前に指揮棒を震わせるので、紛らわしく、間違えそう。
朝比奈隆は、予拍が1小節か2小節なのかも分からない。リハで固めているのかもしれないが、それ無しで、この映像だけだと絶対無理です(御大申し訳ありません(笑))。
 

ジュリーニ・ウィーンフィル ブルックナー交響曲第8番(ライブ)

ジュリーニウィーンフィルブルックナー八番は、スタジオ録音されたCDが歴史的名盤として有名だが、その少し前のライブ録音はさらに凄い。
特にフィナーレの大詰め、Youtubeでいうと1:30:15過ぎ。「ラ、ファ―」というファンファーレをフォルテッシモで3回繰り返す部分だが、あのウィーンフィルが腹の底から絶叫しているような、とてつもない音を出している。
しばらく前に発見してから何度か聴いているが、そのたびに、ツァラトストラが預言者の嘆きを「否!否!三たび否!」と打ち消し、生を肯定する場面を思い出す。
同じ生の肯定でも、揺るぎないカトリックブルックナーと、ニヒリズムを経てきたニーチェとでは全く次元が違うが、闇の底から現れた巨大な光のような力を持つ「音」「言葉」の数々。19世紀末のドイツ語圏文化の達した異常なエネルギーの一例。
ジュリーニの全盛期の指揮姿は、長い腕の先から炎が出ているようだったとどこかで聞いた。この部分ではそれを彷彿とさせる。自分が90年代半ばに彼を生で聴いたときは、そうしたエネルギーは残念ながら全く感じることはなかったが。
 
 

バーンスタイン・ウィーンフィル モーツァルト交響曲第39番

80年代のバーンスタインの録音は大抵聴いているが、モーツァルトの39番は、80年代半ばに自分としての絶対的なベスト盤(ブルーノ・ワルターとニューヨークフィル)と出会って以来、ほとんど他の演奏に目が行かなかったため、未聴だった。

amazon primespotifyにあるので今回聴いてみたが、第二楽章がユニーク。冒頭のヴァイオリンの「ミーファーソラーファミ」の後、「ラーソ、シーラ、ドーシ、レード、ミ、ミ、ミ―(下の)ミ」と高い音程によじ登って行って、最後「ミ」で降りてくるところで、ため息のように、自然にテンポを緩めている部分から耳を奪われる。
大げさにやると物凄く下品になるので、ほとんど気づくかどうか分からないくらいな感じで。この4小節のフレーズは、この楽章で何度となく繰り返されるが、そのたびにこの微妙なテンポの揺らぎが繰り返される。
その後、短調のフォルテに転じた部分も、今よりも人数の多い編成で弾かせて、豊かな低音が素晴らしい。
モーツァルトというのは、その時代までに存在したあらゆる作曲技法上の可能性を極めつくした結果、同時代には芸術面での理解者は誰もいなくなった中、なおも、文字通り死の日までより高みを目指して闘いを続け、疲れ果てて死んでいった人だと思う。
晩年の手紙を読んでいると、家族への他愛もない連絡や借金の申し込みの中に、そういう前人未踏の境地に達してしまった人間の孤独を感じる部分があるが、この39番のアンダンテでも同じ訴えをしていたのだなと気づく。
今でも、39番の演奏全体としては、ロマンチックで奇跡のような生命力に溢れたブルーノ・ワルターのものの方が好きだが、第2楽章だけはバーンスタインのものも別途の魅力を感じる。
ついでに言えば、カップリングになっている40番の第一楽章も、何とも優美で絶品。ジャケットの写真も、初めて販売されたときのものだが、不遇な若い天才作曲家へのtributeとして魅力的だと思う。
 

晩年のモーツァルトの音楽

晩年のモーツァルトの音楽で恐ろしいと思うのは、ごく日常的な風景から一瞬で異次元の空間に連れて行かれるような感じがするところ。
この弦楽三重奏(KV563)もその典型。ハイドンのようなといってはハイドンに失礼かもしれないが、ごくありふれた古典音楽といった感じの提示部を終えた後の展開部(このYoutubeだと、ちょうど5:00以降)。
それまでの晴れた秋空のような変ホ長調から、突然、人生の深淵を覗き込むような和声にふっと変わる。村上春樹の小説で、こういう日常生活から、ふっと異空間に入り込む、壁の中に入っていくみたいなものがあったと思うが、あれと同質のものを感じる。
その後も、不思議に玄妙に響く転調を繰り返した後、意を決したようにベートーヴェンのような激しい調子のフレーズを対位法的に3つの楽器が繰り返す。凡人の自分には分からないが、明らかに何かと闘っているのである。この部分を聴くと、旧約聖書に出てくる、天使と格闘するヤコブの話を思いだす。真っ暗闇の中、目に見えない何物かと一晩中格闘した、あのヤコブの話を。
更に凄いのが、こうした壮絶な音楽から僅か1分15秒ほどで、もとの日常に戻ってくるところ(6:17あたり)。人智を超えたような苦闘の夜を経て、何事もなかったかのように朝食のテーブルについているような感じとでもいうか。
 

庄司紗矢香・オラフソン リサイタル(2020年12月13日)

6年ぶりに庄司紗矢香のヴァイオリンリサイタル、行きました。

日本到着後の検疫期間を経てのリサイタルだったそうですが、プログラムには本人が簡潔ながら作品への思いと静かな自信に満ちたメッセージ。

これまではメータやテミルカーノフ、プレスラーと言った上の世代の巨匠の薫陶を受けてきた印象が強いが、同世代の、それもスーパースター街道をひた走っているオラフソンと組んで日本まで凱旋するのだから凄いと思う。

今日のプログラムでは本人が今回のプログラムの最初にあったというバルトークソナタが圧巻。

オラフソン。いつも神経質で不機嫌な顔でジャケットに映っていたのでそういう人かと思っていたが、毎回、庄司の楽譜を持ってきてヒョヒョッと譜面台に置いてあげたり、アンコールでは結構ノリノリで喋っていたりと、ゲルマン系の男性によくいる「第一印象は強面だけど、単に人見知りしているだけで、打ち解けると超いい奴」の典型のようなキャラとお見受けした。

さすがに音楽的には、バッハやブラームスを中心にかなり自分のペースを押し出している感じで、単なる伴奏には収まる感じではなかったが。

みなとみらいの大ホールでも物足りなさを感じない音楽のエネルギーがありました。

 https://kanagawa-geikyo.com/concert/concert-1914/ 

チェリビダッケ・ミュンヘンフィル ベートーヴェン交響曲第三番(1996年)

留学時代に聴いた懐かしのコンサートの音源を発見。
 
1996年の恐らく2月か3月だったと思うが、チェリビダッケミュンヘンフィルのベートーヴェンエロイカ。同じ演目で2~3回演奏会があったと思うが、この年の夏に亡くなるチェリビダッケの最後のシリーズだったと思う。
 
当時は、第一楽章のリピート無しでほぼ1時間かかる異常な遅さもさることながら、何か天国的な異様までの清澄さを感じた。チェリビダッケは確かに高齢だったが、この時点で数カ月後に亡くなるとは思っていなかったので、予感があってそう感じた訳ではないのだが。
 
今回、この録音を聴くとそういうものは特に感じない。録音がベストではなくて少しヒリヒリした響きもあるけれど、弦・管とも音程が異常に正確で、そのせいで演奏会場では澄み切った印象を受けたのかもしれない。