持続性と非日常性と

職業を問わず、プロたる要件は、まずは「持続的に結果を出せること、そうしたフォームを作り上げていること」だと思う。

たとえば電車やバスの運転といった仕事であれば、毎日間違いなくそれをそつなくこなすことが何より大事だろう。

その点、芸術やショーを仕事とすることはつくづく難しいと思う。そつなくこなすことも決して容易でないが、それだけでは客は満足しない。客は「移動」といった日常的な利便ではなく、何かしら非日常的な体験を求めているからである。

今日のブラボーオーケストラというFM番組で、大阪交響楽団という団体の演奏会が放送された。フィガロの結婚序曲とチャイコフスキーの4番の交響曲をやっていた。非常に丁寧で格調が高くて、さすがプロ楽団という技術を感じさせる演奏だったが、大変申し訳ないが、きちんと整っているということを超えて、何か驚嘆させられたり、心を揺さぶられるものがあまり感じられない。

ただし、そもそもの話、他人の心を揺さぶるような音楽をそうそう毎日作れるものかどうか。一生一度しかこの曲を弾くことがないだろうというアマチュアなら、一音一音これでもかと噛み締めながら弾くだろうが、フィガロもチャイコの4番もプロなら一生に何度も弾く機会があるレパートリーであることだろう。

また、演奏される作品の中には、ベートーヴェンの第5とか、ブラームスドイツ・レクイエム、あるいはマーラーの第9といった、世紀の天才が自らの「血をもって書いた」としか言いようがないものも結構ある。そういうものに毎度毎度、作品の底の底まで徹底的に本気で向き合っていたら、エネルギーと時間がいくらあっても足らないだろう。それでは「持続的に結果を出せるフォームを持つ」という、プロの要件に反することになる。

そうすると、むしろ、作品について徹底的に研究して、Fire and Fury(というと、トランプ大統領みたいだが、要は何かそういう爆発的な)パフォーマンスをするには、持続可能性を気にしなくてよいアマチュアの方がよいのかもしれない。高校野球の選手と同じで、シーズン100試合でなるべく多く勝つことではなく、目の前の試合でベストを尽くせばよいのだから。ただ哀しいかな、アマチュアの場合、気持ちばかり先走って、情熱を裏打ちする技術が十分伴わないことも多い。

プロの技術とアマの情熱を兼ね合わせるのが一番なのだろうけれど、それはなかなか容易でない。若干それに近い雰囲気を感じる例としては、晩年のアバドルツェルン音楽祭管弦楽団の演奏会くらいか。10年くらい続いていた企画だと思うが、毎年、アバドと縁のある音楽家が音楽祭の機会にだけ集まって、取っておきの作品を取り上げているという「ワクワク感」は感じる。あとは、分かりやすい例でいえば、有名なバーンスタインベルリンフィルの一期一会の演奏会。マーラーの第9交響曲を取り上げたライブ録音だが、これはどちらかというとFire and Fury方向に傾き過ぎて、天下のベルリンフィルが随所でミスを連発しているという珍しい爆演系の記録になっている。