アバドの2つのベートーヴェン交響曲全集をどう評価するか。

最近、日本のアマゾン・プライムで、アバドが80年代後半にウィーンフィルと録音したベートーヴェン交響曲全集が無料で聴けるようになったが、これが面白い。アマゾン・プライムでは、これまでも、2000年前後にベルリンフィルと入れた全集も無料で聴くことができたので、新旧全集が簡単に比較できるようになったことになる。両者は革命の前と後と言いたくなるくらい違う。

ちょっと聴いただけでも、次のような違いは明らかだろう。

① テンポ:遅い(旧)→早い(新)

② オケの響き:分厚い(旧)→薄く、歯切れ良い(新)

アーティキュレーション(音の繋ぎ方):

長めのスラ― / スラー間の区切りを強調しない(旧)

→短めのスラー / スラー間の区切りを明確にする(新)(注)

(注)具体的な例を一つだけあげれば、第5交響曲の第1楽章の75~82小節目の第二バイオリンとヴィオラの音型。旧盤では4小節をつなげて水平につなげて内声部ということでほとんど目立たないように弾かせているが、新盤ではスラーが2小節単位で切れることを強調して、ターラン、ターランという動きが内声にもかかわらず浮かび上がるように弾かせている。

2つの録音の間は10年ちょっとしか経っていないが、実際、90年代を境にベートーヴェン交響曲の一般的な演奏スタイルは大きく変わった。アバドのウィーン盤は、本人のベルリン盤よりも、むしろ、かつてのベームカラヤンバーンスタイン、シュミット=イッセルシュテットさらにはフルトヴェングラーのものに近い。逆に、ベルリン盤は、むしろ、ラトル、シャイ―、パーヴォ・ヤルヴィあたりのものに似ている。それぞれ一筋縄ではいかない個性を持っている音楽家達だが、そうした個性も、時代の大きな流儀という枠組みの中での差異であることが改めて分かる。

こうした演奏スタイルの「断層」はなぜ起きたのか。

一番目の仮説は、もの凄く乱暴な私説だが、「時代精神」といったものの影響ではないかというもの。米ソ冷戦がクライマックスに達するといったことを背景に、資本主義・共産主義圏ともに理想社会は何かという「大きな物語」というのが残っていた最後の時代である80年代から、フランシス・フクシマの「歴史の終わり」が語られるような、大きな争いのない90年代に入って、身振りの大きな壮大な表現というのが、19世紀の音楽の再生についても無意識のうちに気恥ずかしくなったのではないかというもの。80年代はベートーヴェンだけでなく、ブラームスブルックナーマーラー等のロマン派の交響曲も、全体に、より緩やかなテンポで、情感を込めた濃厚な表現が多かった。晩年のベームバーンスタインジュリーニ等々。アバドの旧全集は明らかにその系譜のものと言える。

二番目は、より具体的な話として、ベートーヴェン交響曲について、90年代に、音楽学者のジョナサン・デル・マーがオリジナル資料等を検証する等して校訂したべーレンライター版という新しい楽譜が出てきたことが大きいと思う。(アバドの新盤もべーレンライター版の使用を明記している)。

三番目は、70年代頃からのいわゆる「ピリオド演奏」、作曲家当時の楽器と演奏方法、人数を意識した演奏の影響もあるだろう(「ピリオド演奏」の試みは同時にべーレンライター版の策定作業にも影響があったのではと思う)。要するに「ベートーヴェンの時代の一般的なオーケストラの人数は、史料によれば、わずか○○人だった」といった議論である。その影響で、世界中のオーケストラのベートーヴェン演奏の編成はここ30年くらいで随分と小さくなった。上記のアバド・ベルリン盤は映像もあるが、画面で確認する限り、5番の交響曲では、第一バイオリン10、第二バイオリン8、ビオラ6、チェロ6、バス4だった。ウィーン盤は残念ながら映像が見つからないが、耳で聴いて、ほぼ同様の響きがするベームウィーンフィルの来日公演の映像を見ると、チェロ8、バス8だった(バイオリンやヴィオラは画像が古くて人数は確認できないがきわめて多数)。

アバドの二つの全集は、二つの異なる演奏流儀に乗っ取りつつ、いずれについても非常に高い成果を上げているが、そのこと以上に感心するのは、一度ある流儀で高い達成を実現した後に、新たな時代の変化を受け入れて、再度、改めて勉強をし直して、取り入れようという、柔軟さ、やむことない好奇心と挑戦のスピリットである。人間、普通は、一度エスタブリッシュすると保守的になりがちで、なかなかできることではないように思う。

ただ、純粋に自分自身の好みだけでいえば、ベートーヴェン交響曲は、ウィーンとの旧全集のような分厚い響きと、息を長くメロディーを歌うフレージング、要するに大柄でロマンティックな演奏の方が好きだ。日常生活はともかく、音楽くらいは、史実としては正確なのかもしれないが、シャカシャカとした薄っぺらいピリオド演奏的なものは肌にあわず、もっとロマンティックで大きな物語を求めたいと思う。人格形成期を過ごした80年代の音楽環境がそうだったので仕方がないと思う。

その意味で、世の中の変化に一切背を向けて、一貫して大編成で分厚いベートーヴェンを演奏し続けているバレンボイムの頑固さも好きだ。彼は、2000年前後のベルリン国立歌劇場のオケとのもの、2010年代にウェスト・イースタン・ディヴァン管弦楽団とのロンドン・プロムスでのライブという2つの全集を作っているが、いずれもバスを8本並べた超大型編成でオケを鳴らしに鳴らすという点で全く違いはない。

もっとも、こういうスタイルを貫くことは、バレンボイムくらいのビックネームでない限り「アナクロニズム」と批判される惧れがあったりして、アマならともかく、プロの演奏家の場合、もはや難しいのかも分からない。実際、ドイツであれ、日本であれ、過去20年間に接したベートーヴェンの演奏で、バレンボイムみたいなやり方は、それこそ前世代の生き残りで「頑固一徹」そのものみたいな朝比奈隆を除いて、観たことがない。

朝比奈隆の名盤 ブラームス交響曲全集

朝比奈隆というとブルックナー、それからベートーヴェンという感じで、同じ曲について新旧何種類も録音が出ていると思う。他方で、ブラームスは間違いなく重要なレパートリーだったはずだが、その録音については意外に印象が薄い。

 

最近SACDとして出た朝比奈隆=大阪フィル(79~80年)のブラームス交響曲全集。大変失礼だが「馴染みの定食屋のハンバーグ定食」を頼むような気分で、それほど期待もせず、第一番の冒頭をかけてみたところ、これが凄かった。

ドンドンドンとティンパニが鳴り渡るなか管弦楽が、あたかも、頑固親爺が率いる大フィル軍団が「俺のブラームスを聴いてみろ」と迫ってくるような熱気。

最近のN響都響等、日本のオーケストラは技術的には当時の大フィルよりずっと上手くなったと思うが、こういう熱い演奏はあまり聴かないような気がする。

このセットは残念ながらSACDシングルレイヤーなので、普通のCDプレイヤーでは再生できない。いつか、もっと多くの人が聴けるように、通常のCDでも聴けるフォーマットで発売してほしい。

どうも最近は世界中の動向に常にアンテナを立てて、諸事バランスをとりつつ器用に機敏に仕事をする傾向がどの分野でも多くなった気がするが、こういう、どんと座って、頑迷固陋と言われようと、右往左往せず自らの所信を貫くといったところももう少しあってもよいように思う。

 

https://tower.jp/item/4886434/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%EF%BC%9A-%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E5%85%A8%E9%9B%86(1979,80)%EF%BC%9C%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E9%99%90%E5%AE%9A%EF%BC%9E?fbclid=IwAR3dQnWO6asMZ05UwTSXWZRMHHUzQ0DTAOHJNJD1h7clzJU-LY3uXsubzYA

 

 

 

上岡敏之のマーラー復活 新日本フィル演奏会(2019年3月31日、横浜みなとみらいホール)の感想

(2019年3月のコンサート感想)

 

横浜みなとみらいホールでの上岡敏之指揮・新日本フィルマーラー「復活」に行った。ほぼ満員でホッ。

予想通りというか、一筋縄ではいかない上岡流。とくに第二楽章の超快速テンポや、第三楽章その他での強烈なポルタメントその他、随所でユニークな部分があったが、最後の合唱が変ホ長調のフォルテッシモになってからの異常な高速テンポにはさすがに度胆を抜かれた。

この曲は自分が学生時代だった30年前は、日本のオーケストラが取り上げるのは特別な機会に覚悟をもって、所信を問うといった感じで構えて臨むといった感じがまだまだあった。

それがかれこれ15年前になるが、ダニエル・ハーディングが東京フィルを振っているのを聴いた時には、あたかもベートーヴェンブラームス交響曲をやるように、日常的なレパートリーとして、軽々と高水準の演奏をしているような様に新鮮な印象を受けた。本場欧州に追いついたという感じ。

ところが、今日の演奏ともなると、単に技術的に高水準とかいうことを超えて、全く独自でユニークな演奏になっていたと思う。たとえば、チェリビダッケミュンヘンフィルの演奏会というと、好みはあっても、誰もが認める独自の個性を持った音楽だろうということが期待されるが、それに近いというのか、上岡さんという音楽監督を得て、毎回、強烈に個性的な音楽を聴かせてくれることだけは確か。

今日もたくさんマイクが立っていたので、CDになるのだと思う。日本国内に限らず、欧米でも紹介されて、マイナーでもいいから、コアなファンが付くようになるといいのだが。

 

 

ブニアティシビリのシューベルト

(2017年11月のコンサート感想)

 

ブニアティシビリと上岡敏之さんと新日本フィルとの演奏会(2017年11月11日)。メインはチャイコフスキーのピアノ協奏曲で、これについては別途書くが、アンコールで弾いたシューベルトのセレナード(ピアノ版)がとても印象的だった。

演奏会の後、改めてシュライアーが歌っている原曲(伴奏はシフ)を聴いてみたら、テンポがずっと速くて、伴奏もよりスタッカートで歯切れのよいものだった。

日頃、シューベルトの歌曲はあまり聴かないので知らなかったが、要するに、この曲は、本来は、随分と素朴な民謡調の音楽だったということか(もちろんその中にかすかに悲しさも交じっているのがシューベルトらしいが)。歌詞も、夜、男が、窓の下から、女性に愛を語りかけるという古典的な(単純な)セレナードそのもの(ひょっとしたら何か暗喩があるのかもしれませんが)。

それが、ブニアティシビリがやると、もっとずっとゆっくりして、湿った、内省的でメランコリックな音楽だったと思って、you tubeを探したらブニアティシビリの演奏があった。
https://www.youtube.com/watch?v=SlTTgJau33Q

you tubeの音質なので限界はあるものの、主旋律の音色が、ペダルの効果で滲んで微妙に変化していっている感じが聞ける。

伴奏の音型も冒頭こそスタッカートだが、歌の旋律が入ってきた後は、むしろ主旋律と一体となったくすんだ和声になる。ピアノの場合、主旋律にペダルをかける場合、伴奏だけくっきりスタッカートにできないので、編曲自体に由来する部分もあるのでしょうが、それだけではない印象。というのも、ホロヴィッツが同じくピアノ版を弾いているものがyoutubeで簡単に見つかるが、彼は主旋律(歌の部分)をかなりくっきりと大きい音で弾いているので、歌とその伴奏という原曲の構造は維持されている。それに随分と早いテンポで淡々とやっている。

それに比べると、ブニアティシビリのは、なんというか、シューベルトの元の歌曲からは離れて、ショパン短調のワルツやマズルカのような音楽のような音楽になっていて、原曲とは違った魅力をもった楽曲になっている。

ブニアティシビリは、ジャケットの写真や、映像でリスト等をバリバリ弾いている時の野生的な印象が強いが、このシューベルトでは随分違った顔を見せているように思う。

今度発売された第21番のソナタの入ったCD(アルバムのカバー写真がピアニスト本人がオフィーリアに扮していることで話題になっているもの)、最後にこのリスト編曲のセレナーデが入っている。

シューベルト(ハンス・ツェンダー編曲)冬の旅

今日の日経新聞で紹介されていた、ハンス・ツェンダー編曲による室内楽オケ伴奏版の冬の旅。

 

ドイツの放送局によるYOUTUBEがあったので早速第一曲の「おやすみ」を視聴したが、日経の紹介通り面白い。

 

お聴きになるが一番だが、分かりやすくいうと、ベルクの「ヴォツェック」風の「冬の旅」という感じ。途中、歌手が絶叫したり、表現主義風というか、普通の人から見ると、単なる悪趣味ということだろう。

 

ドイツ人には、こういうあけすけの悪趣味の伝統があって、正直、日本人の自分にとっては感性的に厳しいものも多い。一昔前のアーノンクールの演奏なんかもそうだったが、そうしたモノの中で生き残ったものが、新しい革新につながっていく感じがする。

 

https://www.youtube.com/watch?v=mNC6IeXMo10

ヤルヴィ・N響のブルックナー第七番ウィーン公演 現地での評価

欧州由来のクラシック音楽を日本人が欧州人の前で演じるときは、欧州人側には一定の好奇とバイアス、偏見があると思う。歌舞伎を欧米人が演じるようなものと思えば当然ではあるが。

こういうこともあって、日本人が演じ、作曲するクラシック音楽が欧州人にどういう受け止められているかについては常に関心がある。ここであえて「欧州人」といっているのは、詳述は省くが、米国人はクラシック音楽については欧州人と事情がやや異なるからである。

その意味で、今回のN響欧州公演のうち、ウィーンやベルリンでやったブルックナーの7番メインのプログラムというのはあまりにも挑戦的な試みで、現地での受け止めに関心があった。はっきり言えば、心配だった。いかに彼の地でも評価が固まったヤルヴィを指揮台に擁するとはいってもである。

20年前にベルリンにいたときにN響デュトワと来たときは、メインはプロコフィエフの7番だった。これはデュトワらしい巧妙な選曲で、ロシアというのは、ドイツ人にとってはヨーロッパとアジアの間みたいな感じの存在で、プロコフィエフでもときどき顔を出すメランコリックなメロディはどことなく異国風で、極東のオケが演じてもあまり違和感がないのは明らかで、地元の聴衆にも好評だった。今回もロンドンやアムスではラフマニノフ2番メイン。ベルリン・ウィーンもこれだったら無難ではあったろうと思う。

事情は一切しらないが、ヤルヴィ・N響とも、意図的に無難を避けて、自らの信じるブルックナーを本場の聴衆にぶつけにいったのではないか。さすがに「ベルリンやウィーンの聴衆はブルックナーの方が好きだろうから」という能天気な選択ではないと思いたい。

それでどうだったか。ウィーンの公演については主要紙に批評がでている。

DerStandardは、冒頭から「クラシック音楽では、欧州の対日本での圧倒的貿易黒字が続いているなかで、日本のN響が挑戦してきた」という書きぶり。
最初の演目の武満についても、「欧州の影響が顕著で、ドビッシー、マーラーコンコルドのようだ」というのみ(武満の作品を珍しがっている時点で米国の批評家とは随分違う。はっきりいえば視野が狭い)。
その後のブニアティシビリとのべートーヴェンの第三協奏曲については、ブニアティシビリは激賞しつつ、N響の導入部の伴奏については、「眠くて、だらしなく、泡のようだ」と散々な言い様。
ただ、ブルックナーについては、「この特別なソリスト(ブニアティシビリ)は残念ながら一緒でない」としつつも、「ヤルヴィはこの大曲を素晴らしく祝福した」「ただ、折角の日本人の素晴らしい演奏は、管楽器の多くのミスで傷がついた」と、ミスはあったが悪くはなかったというニュアンス。
ただし、最後に3時間近くかかったプログラムは長すぎたとチクリ(おかげでブニアティシビリもアンコールを短かく切り上げたとの恨み節まで。この批評家はどこまでブニ好きなのか)。
https://www.derstandard.at/…/nhk-symphony-mit-buniatishvili…

Wiener-Zeitungは、「口が悪い者は日本にはウィーンよりも長いブルックナーの伝統があるという。あの伝説の朝比奈=大フィルを超えて、日本のオケにはブルックナーとの特別な関係がある」と、これまた今回のN響の挑戦に刺激された書き出し。
その上で、この日の演奏がN響にとってベストでなかったとしても(管がいろいろミスしたというようなニュアンス)、伸び伸びと大きな響きで弾かせていて、両端楽章を中心に、非常に印象的なブルックナーだと好意的な評価。
興味深いのは、ヤルヴィのフランクフルト放送響との同じ曲の演奏(おそらくCDのこと)はもっと痩せた(すっきりとした)演奏であり、今回、ヤルヴィはN響とその伝統にかなり任せていることは明らかとしているところ。欧州公演前の東京公演をFM放送で聴いたが、かなりすっきりとした痩せ型美人みたいな、典型的なヤルヴィ流のブルックナーと感じたので多少違和感はある。
そのほか、ブニアティシビリと一緒のベートーヴェンの第三ピアノ協奏曲や武満についても、概ね好意的で、DerStandard紙のように底意地の悪いことは書いていない。
https://www.wienerzeitung.at/…/2052521-Konzerthaus-Lauschen…

ブルックナー自身も悩まされたハンス・リック以来の辛口批評の伝統があるウィーンでの評価としては、まあよく踏みとどまったというところか。

ベルリンでの同じ曲の演奏の評判がどうだったかも、見てみたい。

 

ブニアティシビリ・上岡敏之・新日本フィル チャイコフスキー・ピアノ協奏曲(2017年11月17日)

(2017年11月17日の演奏会備忘)

上岡敏之新日本フィルとの演奏会。ブニアティシビリはチャイコフスキーのピアノ協奏曲で登場するが、チャイコフスキーを挟んだ前後が、ベックリンの有名な絵画「死の島」をモチーフとした2つの作品。冒頭がラフマニノフ交響詩「死の島」、後半のメインがレーガーの「ベックリンによる4つの音詩」、その3曲目がやはり「死の島」にインスピレーションを得たもの。こういうコンセプトに基づいたプログラミングは、上岡=新日本フィルのこだわりで非常に面白いが、やはり実質的なメインはどう見てもチャイコフスキーというところかと。

奔放さではアルゲリッチ以来じゃないかと思われる雌豹ブニアティシビリを、これまた本番で何を繰り出すか分からない舞台人・上岡さんがどう迎え撃つかが、大変楽しみな組み合わせ。

案の定、スリリングもスリリング。ホルンから始まるあの有名な入りが、何か非常にゆっくり目でふわっと宙に舞ったような不思議な感覚。上岡さん何かやるのかなと思う間もなく、ピアノが入ってくる。ジャン、ジャン、ジャンという3拍子の和音は、意外に普通。もう少し、ギレリスみたいに鋼鉄のような、もの凄い響きで弾くのかと思ったら、そうではなくて、とても整った響きの綺麗な音。

ところがやはり、序奏が終わって主部に入るや否や、ブニアティシビリがさっそく仕掛けてくるというか、猛烈に早いテンポで走る、走る。でも、上岡さんのオケがそれに負けず、ピシッとテンポを付けてくるのはさすが。場所によっては弦も管も曲芸のよう。

全曲の白眉は第2楽章。ブニアティシビリはデビューの頃、リストのソナタをバリバリ弾きまくっていたのと、野生的な容貌のせいで、何となく猛女のようなキャラクターとのイメージを勝手に抱いていたが、実は、ピアノ音がとても繊細に変化して、特に弱音がもの凄くきれいで、こういう抒情的な音楽な音楽だと本当に引き立つ。この日は、協奏曲の後、アンコールでドビュッシーの月の光と、シューベルトのセレナードのピアノ版を2曲も弾いてくれたが、そこでもこの弱音の美しさが際立っていた。

自分は残念ながら世代的にホロヴィッツの実演に接する機会はなかったが、いろいろなピアニストの中では、ブニアティシビリは、録音で知るホロヴィッツの音色がキラキラと変わる音にとても似ていると思う。

第3楽章は、予想通りというか、これまたオリンピックの短距離走並みではないかというような猛烈な速度。他方で、冒頭のところが典型ですが、早すぎて、あの独特のリズムが十分維持できず、少し平板な感じもあったが、それにピタリと付けて最後までビシッと決めたオケに拍手。

全体の印象としては、第一楽章、第三楽章はもう少しゆっくりな方が、チャイコフスキー特有の美しいメロディーが楽しめたとも思うし、そう言った点も含めて、この曲に理想的な演奏を求めるなら、リヒテルカラヤンの古い録音や、ギレリスとメータのもの等、別途いろいろあると思う。

ただ、実演ならではの何が起きるか分からないというスリルは非常に味わえたし、何よりも、このジョージア出身の若いピアニストが、自らの二の腕だけを頼りに世界中をツアーで回り、誰にも遠慮をせずに、自らが信じるまま突っ走っている、その潔さと度胸に感動を禁じ得ないところがあった。かつて、外国に渡った直後の小澤征爾もきっとこんな感じだったのだろうな、というか。やはり、まだ貧しい国の出身の人だからなのか、ガッツとエネルギーが凄い。もちろん、それを正面から受けて立った上岡=新日フィルにも拍手だが。

残りの曲目については、ラフマニノフは面白かったが、レーガーは残念ながらちょっと作品自体が弱いかなという印象。ただ、上岡=新日本フィルは、これもツェムリンスキー「人魚姫」等と一緒にCDにしている。たくさん売れるとは思えないアルバムだが、日本のオーケストラがこういう曲目までCD化するのは凄いと思う。

さて、当日の新日フィルは出血大サービスで、この後、オケのアンコールまであった。何とワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」。これも「死」というコンサートのテーマと、最後のレーガーの編成が、ホルンを1人足せば一応ワーグナーをやれるものだったということだろうが、大変洒落たプレゼント。さすがに、緻密に作り込むいつもの上岡流ではなくて、ざっと流して、やや映画音楽風ではあったが、大変贅沢な話。

これだけ楽しんでA席たったの2000円。S席でも4500円で、学生やシニア割引もあるので、本当にお得。楽団の財政が少し心配。さすがにこの日の客入りは悪くなかったが、応援したいもの。